碧痕3「天竺を尋ぬるに茫々として処なし」
3 「天竺を尋ぬるに茫々として処なし」
伝教というものは他の誰かの舌を通した告白、つまり恐喝であるために威嚇的であり、脅しつけるように説得しかけるのであるが、ゴシック的なものが、日常の惰性的定位や地盤、あてどといった、それと知らず耐え、使いこなされている裂目が剥き出しになって疑わしくなり、宙に浮いてしまう極端に私的な経験の報告をおどろおどろしくするのも、その、発見・反省・啓蒙の効果が、エコーのかかった(すなわち、届けられる音信が発信元にのみ届く)恐喝だからである。
仏の観想といったものも極端に私的な経験であり、惚恍を以て模写された裂目が転写された思考としての「天竺を尋ぬるに茫々として処なし」は、エコーそのものにエコーのかかった恐喝である。届かなさを届けようと藻掻くのである。
分業としての恐喝の場合、発信元は殺害される恐れがあるが、殺害されても発信と受信の分業が解除されないままに受信の痕跡が発信元の死体となって遺ってしまう。エコーがかかるのではなく、私的な受信を公的な死体に埋め隠して沈黙がかかるのである。しかし、暴かれたくない秘密を何よりも公けのものとしての死体に隠匿することは、遡上の通路になってしまう。神託が恐喝じみているのは、もとより恐喝が神託の世俗化であるからである。荘厳の世俗化に二つの相、恐慌とグロテスクがあるように、神託の世俗化にも二つの相があり、一つに恐喝、もう一つは推理である。一般化の追いつかない秘密に追いつこうとして遡上するのが、推理である。それは露骨に威嚇はしないが、強迫的に踏む手続き(証言、証拠、供述)の、その共謀の効果は果たして威嚇じみている。この共謀は、神託にかかる陰謀の分割(分業)なのである。
恐喝を以て複写された秘密を死体に隠す、この二重の複写を通して秘密は自生す(るかの如くにな)る。「釈迦牟尼仏、摩訶迦葉仏に於いて悟る」は、死体に隠された秘密としての(括弧憑きで自生する(かの如くである))仏が自生するかの如くであることを伝教しようとしてエコーがかかるのである。
極端に私的で、直しさを鎧うほどの寿命に達しない仏の観測は、実は、極端に系統発生的な遡上ではないか。一般化が追いつかないように見えるのは、触角が触れる関心の延長が集団の諸水準をはるかに追い越しているからではないのか。
伝教というものは他の誰かの舌を通した告白、つまり恐喝であるために威嚇的であり、脅しつけるように説得しかけるのであるが、ゴシック的なものが、日常の惰性的定位や地盤、あてどといった、それと知らず耐え、使いこなされている裂目が剥き出しになって疑わしくなり、宙に浮いてしまう極端に私的な経験の報告をおどろおどろしくするのも、その、発見・反省・啓蒙の効果が、エコーのかかった(すなわち、届けられる音信が発信元にのみ届く)恐喝だからである。
仏の観想といったものも極端に私的な経験であり、惚恍を以て模写された裂目が転写された思考としての「天竺を尋ぬるに茫々として処なし」は、エコーそのものにエコーのかかった恐喝である。届かなさを届けようと藻掻くのである。
分業としての恐喝の場合、発信元は殺害される恐れがあるが、殺害されても発信と受信の分業が解除されないままに受信の痕跡が発信元の死体となって遺ってしまう。エコーがかかるのではなく、私的な受信を公的な死体に埋め隠して沈黙がかかるのである。しかし、暴かれたくない秘密を何よりも公けのものとしての死体に隠匿することは、遡上の通路になってしまう。神託が恐喝じみているのは、もとより恐喝が神託の世俗化であるからである。荘厳の世俗化に二つの相、恐慌とグロテスクがあるように、神託の世俗化にも二つの相があり、一つに恐喝、もう一つは推理である。一般化の追いつかない秘密に追いつこうとして遡上するのが、推理である。それは露骨に威嚇はしないが、強迫的に踏む手続き(証言、証拠、供述)の、その共謀の効果は果たして威嚇じみている。この共謀は、神託にかかる陰謀の分割(分業)なのである。
恐喝を以て複写された秘密を死体に隠す、この二重の複写を通して秘密は自生す(るかの如くにな)る。「釈迦牟尼仏、摩訶迦葉仏に於いて悟る」は、死体に隠された秘密としての(括弧憑きで自生する(かの如くである))仏が自生するかの如くであることを伝教しようとしてエコーがかかるのである。
極端に私的で、直しさを鎧うほどの寿命に達しない仏の観測は、実は、極端に系統発生的な遡上ではないか。一般化が追いつかないように見えるのは、触角が触れる関心の延長が集団の諸水準をはるかに追い越しているからではないのか。


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