碧痕7 白いマリア
7 白いマリア(「法王庁の抜け穴」A.Gide)
ドアを叩いて誰かが訪れた音がする。それは、廊下に面したドアではなく、隣の部屋に通じるドアでもなく、これまで気づかなかったが街衢に面した側にもう一つのドアがあって、そのドアの方に向き直ろうとして果たして魄(からだ)が言うことをきかない。袍をいだき、蒼白く血の気のない白いマリアがドアを開け放つのであるが、その具体が、服従の運動(魄)であるはずなのにそうではなく、潜伏してあてどになるはずの命令(魂)が曝されて命令の運動(服従の運動(魄))になってしまっている、その二重性のために、方角も距離も失調し、金縛り状態なのである。白いマリアそのものがそうなのである。これは、あてどとしての場所(魂)が具体としての土地(魄)と重なって曝されている失調の変奏の一つである。この潜伏の効果の解除としてのあてどなさは、この世のものの跡形もなさと混同されがちで、無常ということが報告しようとするのも、この世というものの跡形もなさなのか、この世のものの跡形もなさなのか、峻別しようと藻掻くのではない。
白いマリアは、研究と称して生体実験で小動物の殺生を日々の事とするアンティムを姪たちが憂えて祈りをマリア像に捧げていたが、それを愉快としないアンティムが誤ってマリア像の前腕を掻いてしまい、金属の軸がむざんにも剥き出しになるという昼間の出来事を素材にしているのであるが、この畸形のマリア像の賦活と侵入に、「われを傷つけたるなんじよ。わが手なくば、われなんじを癒すことあたわじと想うや。」という問いかけに、ぞっとするのは、昼間の冒涜を責め立てられたからというのではない。それでは滑稽に過ぎる。
失調した方角から薄気味悪く迫る白いマリアは、「われ」を脅かす何かが打ち消され疚しさとなって潜伏し、その潜伏の効果が「われ」のあてどになるような何か(闇のマリア)を「魂」とする(と同時にその意味とする)「魄」である。音楽を脅かすものは沈黙であるが、この沈黙が打ち消されて疚しさとなって潜伏するその効果こそは音楽の基盤であり、音楽は沈黙が出現すると同時に潜伏する媒体であるが、そのことが度忘れ状態である限りで、音楽と沈黙は対位し、通奏低音は沈黙を模写しようとする野心として転位する。同じようにして(逆に)、白いマリアにぞっとして総身の毛も太る限りで、それは、白いマリアが「魄」であることの、究極の懐疑としての覚醒(おどろき)なのである。
このようにして、この白いマリアの二重性は三重である。金縛り状態であり、夢の如く響くのであり、地獄から管を通されているのである。一方、日常に転位した白いマリア像は、通奏低音的に闇のマリアを模写して遍在する如くである。
ところで、アンティムが邪宗から転ぶのは、突然の発心というものがそうであるように(無常に被曝しつつも、跡形もないものが何なのか曖昧なままに)、疚しさに(闇のマリアに)被曝しつつも、それが脅かすのかあてどなのか曖昧なままに、この白いマリアを負の踏み絵とするに過ぎない。
註1 鴎外が叙述するロダンの、その彫刻は、「魂」を映し出す鏡(媒体)としての「魄」に肉薄しようとするのである。
ドアを叩いて誰かが訪れた音がする。それは、廊下に面したドアではなく、隣の部屋に通じるドアでもなく、これまで気づかなかったが街衢に面した側にもう一つのドアがあって、そのドアの方に向き直ろうとして果たして魄(からだ)が言うことをきかない。袍をいだき、蒼白く血の気のない白いマリアがドアを開け放つのであるが、その具体が、服従の運動(魄)であるはずなのにそうではなく、潜伏してあてどになるはずの命令(魂)が曝されて命令の運動(服従の運動(魄))になってしまっている、その二重性のために、方角も距離も失調し、金縛り状態なのである。白いマリアそのものがそうなのである。これは、あてどとしての場所(魂)が具体としての土地(魄)と重なって曝されている失調の変奏の一つである。この潜伏の効果の解除としてのあてどなさは、この世のものの跡形もなさと混同されがちで、無常ということが報告しようとするのも、この世というものの跡形もなさなのか、この世のものの跡形もなさなのか、峻別しようと藻掻くのではない。
白いマリアは、研究と称して生体実験で小動物の殺生を日々の事とするアンティムを姪たちが憂えて祈りをマリア像に捧げていたが、それを愉快としないアンティムが誤ってマリア像の前腕を掻いてしまい、金属の軸がむざんにも剥き出しになるという昼間の出来事を素材にしているのであるが、この畸形のマリア像の賦活と侵入に、「われを傷つけたるなんじよ。わが手なくば、われなんじを癒すことあたわじと想うや。」という問いかけに、ぞっとするのは、昼間の冒涜を責め立てられたからというのではない。それでは滑稽に過ぎる。
失調した方角から薄気味悪く迫る白いマリアは、「われ」を脅かす何かが打ち消され疚しさとなって潜伏し、その潜伏の効果が「われ」のあてどになるような何か(闇のマリア)を「魂」とする(と同時にその意味とする)「魄」である。音楽を脅かすものは沈黙であるが、この沈黙が打ち消されて疚しさとなって潜伏するその効果こそは音楽の基盤であり、音楽は沈黙が出現すると同時に潜伏する媒体であるが、そのことが度忘れ状態である限りで、音楽と沈黙は対位し、通奏低音は沈黙を模写しようとする野心として転位する。同じようにして(逆に)、白いマリアにぞっとして総身の毛も太る限りで、それは、白いマリアが「魄」であることの、究極の懐疑としての覚醒(おどろき)なのである。
このようにして、この白いマリアの二重性は三重である。金縛り状態であり、夢の如く響くのであり、地獄から管を通されているのである。一方、日常に転位した白いマリア像は、通奏低音的に闇のマリアを模写して遍在する如くである。
ところで、アンティムが邪宗から転ぶのは、突然の発心というものがそうであるように(無常に被曝しつつも、跡形もないものが何なのか曖昧なままに)、疚しさに(闇のマリアに)被曝しつつも、それが脅かすのかあてどなのか曖昧なままに、この白いマリアを負の踏み絵とするに過ぎない。
註1 鴎外が叙述するロダンの、その彫刻は、「魂」を映し出す鏡(媒体)としての「魄」に肉薄しようとするのである。


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