Sunday, August 01, 2010

碧痕14 感染

14 感染
 metamorphosis の媒質が隠喩性の場合の、化けて出る、その媒体性が秘密になると媒体が出現するが、
媒体1 metamorphosis の媒質が平均性の場合を言葉は模写し、
媒体2 metamorphosis の媒質が提喩性の場合を貨幣は模写する。
こうした三つの到達・保存に加えて、第四の到達・保存が感染であるが、これは、媒体性が寄生体となって他の誰かの身体に顕れるために度忘れ(しかし、喉元まで上り詰めて来ている予期)の状態であり、この感染性の場合を模写する媒体が、物語である。というのも、物語ることは、感染がそうであるように、「私」というものがバラバラになることであり、履歴改竄する感染の経路としてのplotは「私」というものを脅かす陰謀であり、分別、重んずること、振り返ることとしての思考が地獄から管を通されて意味や価値、出来事といった重力(の効果)が揮発して宙に浮いているが、しかし、出来事を個別化すると同時に一般化する媒体として物語は流通するのである。
写真はこうした媒体としての物語(ること)の一つである。それは、出来事を静止画像にするために時間を極端に拡大し、劇化するだけでなく、覗き穴の向こう側の出来事に面しては言葉の如く、写真を覗く目に面しては貨幣の如く振る舞う。それは、或る出来事を複写して平均化するだけではなく、その写真に面する目(覗き穴のこちら側)を転写する。それは、覗き穴の向こう側を代表し、しかも覗く側をカメラの器官の延長として次々と複写する覗き穴なのである。覗き穴の向こう側としての写真は、この、覗き穴(ピンホール)としての写真の、その履歴改竄と重なって、物語は二重である。この二重性(裂目)に被曝すると、写真は宙に浮く。サイバー空間に漂う三島の生首は、単に無残に胴体から切り離されているだけでなく、感染の経路が不明なままに地層をなす履歴改竄に無残に擦り切れている、というよりは疲れ果てている。というのも、覗き穴の向こう側としての三島の生首が保存するもの(身体の解体)と、ピンホールとしての三島の生首が保存するもの(寄生体)とがほぐし難く混乱しているからである。明治初期に日本を訪れた誰かが撮影した、こちらを振り向く往来の人々にせよ、ありふれた七五三のカラーの記念写真にせよ、媒体として失効するとすれば、それは、目一杯に拡大された覗き穴の向こう側と、覗かれる側も覗く側も誰でもなくするピンホールとしての写真との、痙攣的な二重性に曝されて失語状態とも恐慌ともつかぬ真空が蔽いかけるのである。写真が薄気味悪く迫る限りでは、覗かれる私的な出来事は一般化が追いつかないが、ピンホールとしての写真は系統発生的に追い越していて「私」というものが跡形もなくバラバラになるのはオマエノコトナンダゾと脅かしかけるのである。

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