Friday, September 24, 2010

碧痕20 2040年は既に始まっているという気配に被曝して

20 2040年は既に始まっているという気配に被曝して
 私小説を方法にする虚構は、「私」の生活を報告することに(覗かれることに)照れている。視線をこらえ切れずについ腕時計を見たりする、そのようにしてうそをつく。騙そうとしてうそをつくのではなく、痒くもないのに頭を掻くような転移発作としてのうそ、うそが好きでうそをつくのでもなく、当惑からうそをつくのである。半ば当惑から半ば方法から、妻が「狐になった夫人」や「青春・台風|を読むことになる。一方、こうした秘密は、一般化が追いつかないというのではなく、黙ってもいられない。あまり素朴にならないようにと、覗く人々につい警告を出してしまう。しかし、こうした虚栄は、私小説を方法にする虚構を半端にしてしまう。虚構の気配を消してしまうことこそは、虚構(小さな要請)のはずである。
 ある童謡の作曲者ルソーがあの「告白」のJ.J.ルソーであると知り、そのルソーが、なんとしたことか生まれた子供を次々と捨子にしたと知って「庄野夫妻」が唖然と顔を見合わせる、その素朴さは、告白を方法にする虚構のえじきであるが、こうした素朴さこそは、如何わしい妥当要求をそれと知らず使いこなしている。それが日常なのである。
 「西遊記」の縦横無尽の法螺は、逆に、天竺が途方もなく遠いことを以て、妥当要求の如何わしさを暗示する。天竺が姿を顕しても、隠れていたものが顕れる効果に包まれるに過ぎなく、妖怪変化の腥い息がかかっていないとは証明できないのである。それは、どこまで遡っても「告白」から追跡と陰謀の気配を消せないことに通底している。
 空想ではない日々の生活の報告を保護する津々浦々の人々、庄野夫妻の庭の水盤にくりかえし四十雀やメジロが来て水浴びするように庄野が同じ話を初めて話すかのように話すのをよろこぶ人々は、その話が自生して(いるかの如く)いつの間にか伸びたり消えたりするように育てる。この日々の生活は、野生のトウモロコシではない。うさぎのミミリーや、山田さんの鈴虫、ハムスターのパールや犬のジップのように飼われる、寄生の実験なのである。野生のトウモロコシは知られていないが、栽培されるトウモロコシはヒトに取り憑いて(器官を延長して)繁殖を拡張するのであり、実は、獰猛である。
 ところで、2040年は既に始まっているという気配が退かないとすれば、その気配に被曝して今を主張する日々こそは野生のトウモロコシであるが、野生のトウモロコシを見たと報告しても、それは届かない。この報告は、細部に丹精であろうと大雑把であろうと、或いはうそを以て簡素に模写(抽象)されていようと、野生のトウモロコシの気配を消すことだからである。野生のトウモロコシを撮影しようとして野生のトウモロコシの気配を消してしまうことは、日々の生活を報告しようとして虚構の気配を消してしまうことに祟り返している。2040年の気配で宙に浮いた日々の生活は実でも虚でもないのに、一旦分割が入り込むや、その化かし合いは、打ち消されて疚しさとなって潜伏した虚の、その潜伏の効果こそが実であること、そのことであるが、私小説(を方法にする虚構)はこのことの度忘れに基づいていて、実は、虚構というものは不随意に展開するものなのである。

註1 実・虚→実(虚) 天使を見たことがあるか、という経験の問はそのまま失効する。
   実(虚)→実( )寿命を鎧った地上のもの、という応答は擬態の度忘れ状態に基づく。
 「夕べの雲」(庄野潤三)と呼ばれる混乱は、こうした問答である。
註2 被曝とは、地上のものが鎧った寿命が(従って場所や死滅が)解けるのである。「夕べの雲」にはきのこ雲が騰がっている。しかしそれは、地上のものを破壊するのではなく、地上のものが鎧っているものを揮発させるのである。
註3 日々の生活の、その吉凶、明暗、去来の報告をどのように庄野はカノンにするか。人の摂食の習性、渋く堅い皮のあるものは剥き、種のあるものは吐き出す習性を以てである。日常の、その大気(蜃気)は人をあざむき、捕食する。日常は蜃気の、その大きな口と胃袋の気配を消した罠であり、迂闊に留まると消化されてしまう。その丸呑み込みに抗するようにカノンは、人の摂食の習性を以て日々の生活を模写して延びる。
註4 フーちゃんが来て、人形やぬいぐるみなどで妻と遊ぶのをそばで見守る、二人が書斎の方へ移動すればするでついて行って、でくのぼーのように突立って見ている、このようにして、庄野は、お盆にやって来るご先祖の如く気配づく、しかも、気配を消す。追い詰められた忍びの者が単に気配を消すようにではなく、梶井基次郎の「交尾」の或る片隅が光り出していたように、河鹿を見ようとすれば大胆に神速に河鹿の鳴いている瀬のきわまで進み、身をひそめ動かず、渓の石になってしかし目はらんらんとしている、という風にである。或いはまた、ラムの「エリア随筆」の或る片隅が光り出していたように、伽藍とした屋敷をうろつき、十二シイザアの半身像に幾時間も見いっていると、古い大理石の頭が息づきだし、ラム少年が大理石になってしまっている、という風にである。こうした幽霊性と窃視は、果たして追い詰められていて、覗き穴は盗まれている。この狭められた擬似奥行のもう一つの展開は、孫悟空の西への旅の如く果てしない視野の拡大である。三蔵一行が忽ち追い詰められてしまうのは、再びそこを通ることのない旅行者であるからであり、カメラ・アイであるからであり、すなわち、2040年は既に始まっていてしかも今を主張して、窃覗されているからである。

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