Sunday, October 10, 2010

碧痕24 青い山脈

24 青い山脈
 眺めや思い出は、景観や歴史とは違う。それは、もうすぐ近くに見える(しかしその方角へ自転車を漕ぎ出すと遠ざかる)青い山脈である。
 それは近くして遠い長目の効果に包まれて、陶然とするだけでなく、何か惜しいというような、何か届かない、ピンぼけのような生体反応が起こる。盆地や、里山や鎮守の杜、松原が、時として何か胸ぐるわしく、杳か迫るとすれば、それは、日本の一般的景観に解消されていないのである。景観としての里山や松原は跡形もなく破壊されるとしても、長目の効果ははじめから跡形もない。景観の保存を通して保存されるようなものではないのである。
 こんなにも近いのに遠い、といった失調、こんなにも新しいのに古い、といった失調は、(霊としての)蒼い水脈を映し出す「青い山脈」(石坂洋次郎)の、その即興性、占領下の奥羽地方のつがい形成を間に合わせの素材にして思いがけなく出現した「青い山脈」が息洩らしている蒼い水脈の気配、その、何よりも身近で何よりも疎々しい気配が、地上に転写されたものである。こんなにも思いがけないのは(従って)予期されていたのであり、しかも打ち消された予期は疚しさとなって潜伏して脅かしかけるのである。しかし、薄気味悪く迫るというよりは、蒼い水脈に矛盾しない範囲でずれる即興の、その、ずれから、何か惜しい、何か届かない、というようにピンぼけなのである。
 恐らくは、柳田国男が報告している「何をしようか、というような春愁」も、到達・保存の衝動が範疇的、模写的ではなく、そうした擬態を解いた衝動(化)に面して、具体の極に面して、その、間違ったようなしかも無謬のずれに面しての生体反応である。 

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