Wednesday, November 03, 2010

碧痕29 互角の責め

29 互角の責め
 「珠子の場合、その思い出し方は、奇妙なものだった。というのは、彼女の記憶の中には、嘗て自分の生命を救ってくれた青年の顔形が、はじめから全然存在しないのであった。いや、存在はしているのかもしれないが、濃い煙のように、一つの感じとしてくすぶっているだけで、まだ目や鼻や口を備えた顔として存在したことは一ぺんもなかった。それでも珠子は、もし自分がその青年に出会えば、必ず見分けができるという自信があった」(「人生」石坂洋次郎)こうしたunlearn の運動は、個体発生的であれ系統発生的であれ、模写としての抽象が擬態を解くこと、化である。初めて囀ろうとするウグイスは、その、喉元まで上り詰めて来ている衝動が「濃い煙のように、一つの感じとしてくすぶって」いても、具体となって化けて出ない限り、ああこれだったのだ、というように解明されない。
 魚雷に沈められた船から海に逃れた珠子は、もう一人も乗せられないボートにしがみついていた後で、その青年と入れ替わることになる。青年に身代わりであることが顕れたために珠子はそのことが(身代わりであることが)度忘れ状態にある。ところが、実は珠子に覗き穴を盗まれていた青年が珠子こそは身代わりだったのだと告白して、身代わりであることの責めを内向と外向に分割する。この互角の責めが、程度として内向に傾けば犯人が逼るスリラーに、外向に傾けば犯人を追い詰める犯人探しの話に分岐する。「人生」では、嫉妬が、珠子の婚約者にして青年の(青年が騙そうとしていた(と青年は告白する))取引相手でもある渡辺に感染する程度に、分岐しかけている。珠子と渡辺の間柄は、婚姻色が顕れているというよりも、なごり惜しさと瞋恚の分業であり、珠子が青年に追いつくためのルーペに過ぎない。
 青年の二つの告白はうっかり盗まれていた覗き穴を取り返そうとしてはにかむか、照れるかして、どちらともつかない。この告白は、実はルーペで拡大された秘密なのである。ルーペが拡大して、浮かび上がったのは、一滴の露である。
 人生というものが、動もすれば參と商の如し、今夕また何のゆうべ、同じ燈燭の火を共にす、明日山岳を隔てなば世事両つながら茫々、というように寂漠を以て語り出されようと、道成寺の如く、無量のなごり惜しさと瞋恚を以て語り出されようと、覗き穴がしかも盗まれていて、互角の追跡・遁走、互角の誘惑、互角の責めが息づいている。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home