碧痕32 互角の度忘れ状態
32 互角の度忘れ状態
「太陽は空にカッカと燃え、木陰は地を覆うて、蝉の声のみ耳にかしましく、あたりはひっそりして人声一つしない。ちょうど薔薇の棚のところまできたとき、ふとだれかすすり泣きをしている声がした。たしかに棚の向こうにだれかいる。時は五月のことで、薔薇は花も葉もまっ盛りであった。」(「紅楼夢」第三十回)宝玉が塀の隙間から覗くと、ひとりの女の子が花の下にしゃがんで、地面を釵でつついて泣いている。黛玉に倣って地を掘って花を埋めているのかと思ったが、そうではなく、地面に字を書いているのだ、しかも縦棒、横棒、点、鈎と順に数えていくと十七画、どうやら薔の字らしく、花に興じて一句二句うかび、推敲でもしているのかと思ったが、そうではなく、次の字もその次の字も薔の字ばかり書いている。女の子は芝居を稽古している十二人のひとりのようだったが、たちやく(生)、おんながた(旦)、わる(浄)、どうけ(丑)のうちのどの役をしているかまでは見分けられなかった。その眉は春の山のように蹙み、秋の水のように顰め、なよなよと黛玉にそっくりで、宝玉は、その場に釘づけになったように、呆然とみとれていた。
井戸に落ちても、人に投胎しても持ち主に変わりなく、持ち主が近づく気配に光り出す。宝玉を責めるのは、こうした珠玉が分身していることであるが、黛玉を責めるのは、春の山に愁が属するのではなく、春の山に面して生活反応として、幽霊を私は見つけたのにその幽霊は私を探しているようではない、といった愁訴である。人に投胎したはずなのに植物のままに留まっているような、かといって人のなりに下生してしまっている、その、届かなさ、もどかしさ、痞え、焦燥と猜疑、肉づかない顰め顔の黛玉は、この世に面して、何をしに来たか思い出せない。思いがけなくないてばかりいる、その、歔りなく現実こそは、喉元まで上り詰めて来ている命令の解なのに、もう一つの解があるかのようなのである。宝玉が珠玉の分身に茫然とする如く。
「太陽は空にカッカと燃え、木陰は地を覆うて、蝉の声のみ耳にかしましく、あたりはひっそりして人声一つしない。ちょうど薔薇の棚のところまできたとき、ふとだれかすすり泣きをしている声がした。たしかに棚の向こうにだれかいる。時は五月のことで、薔薇は花も葉もまっ盛りであった。」(「紅楼夢」第三十回)宝玉が塀の隙間から覗くと、ひとりの女の子が花の下にしゃがんで、地面を釵でつついて泣いている。黛玉に倣って地を掘って花を埋めているのかと思ったが、そうではなく、地面に字を書いているのだ、しかも縦棒、横棒、点、鈎と順に数えていくと十七画、どうやら薔の字らしく、花に興じて一句二句うかび、推敲でもしているのかと思ったが、そうではなく、次の字もその次の字も薔の字ばかり書いている。女の子は芝居を稽古している十二人のひとりのようだったが、たちやく(生)、おんながた(旦)、わる(浄)、どうけ(丑)のうちのどの役をしているかまでは見分けられなかった。その眉は春の山のように蹙み、秋の水のように顰め、なよなよと黛玉にそっくりで、宝玉は、その場に釘づけになったように、呆然とみとれていた。
井戸に落ちても、人に投胎しても持ち主に変わりなく、持ち主が近づく気配に光り出す。宝玉を責めるのは、こうした珠玉が分身していることであるが、黛玉を責めるのは、春の山に愁が属するのではなく、春の山に面して生活反応として、幽霊を私は見つけたのにその幽霊は私を探しているようではない、といった愁訴である。人に投胎したはずなのに植物のままに留まっているような、かといって人のなりに下生してしまっている、その、届かなさ、もどかしさ、痞え、焦燥と猜疑、肉づかない顰め顔の黛玉は、この世に面して、何をしに来たか思い出せない。思いがけなくないてばかりいる、その、歔りなく現実こそは、喉元まで上り詰めて来ている命令の解なのに、もう一つの解があるかのようなのである。宝玉が珠玉の分身に茫然とする如く。


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