碧痕35 あさましがり、顔をあからめる
35 あさましがり、顔をあからめる
互角の追跡・遁走は、引き裂かれていることを模写するのであるが、何か逆転がつきまとう。道成寺の場合、その遁走は実は誘惑であるし、「走れメロス」の場合、駆り立てるものから実は遁走している。結末でメロスが赤面するのは、信義(の責め)に追い立てられながらも遁走をこころみていたはずなのに信義をあさましくも体現してしまう恥ずかしさに、また、人の良い誤解から打ち消し難くもはや手に負えない喝采が湧然と起こっていることに照れて、メロスではなく太宰の顔面の紅潮がメロスに転移したのである。奮闘の末に裸同然の姿をうら若い娘に指摘されて顔を赤らめるのではなく、責め苦の化けの皮を剥がれるような気がして、その二重性を模写する血管の膨張が、互角の追跡・遁走となって、魘されるように散文化される。太宰は顔をあからめたいのである。
心中の成功を太宰はあさましがるだろうし、桜桃忌に玉川上水路に巡礼する人々が面はゆいだろう。顔はあからめたいが、移したくなるのであり、しかしメロスはいない。
蛇体を隠した「ヴィヨンの妻」の待ち侘びることとして責め伸びて来る追跡を躱すようにしてする誘惑は、追跡の道筋がいつの間にか器官の延長としての他の誰かにずれるように誘導することである。蛇体となって駆り立てる媒体性(としての責め苦)が妻に降りかかる姦通や強姦といった操守の頓挫となって顕れるように遁走・誘惑するのである。蛇体は、追い詰めてみたら他の誰かに抱き竦められてしまっていて、あさましがる。人知れず、太宰とヴィヨンの間に感染がおこり、あさましがり、顔をあからめる。
互角の追跡・遁走は、引き裂かれていることを模写するのであるが、何か逆転がつきまとう。道成寺の場合、その遁走は実は誘惑であるし、「走れメロス」の場合、駆り立てるものから実は遁走している。結末でメロスが赤面するのは、信義(の責め)に追い立てられながらも遁走をこころみていたはずなのに信義をあさましくも体現してしまう恥ずかしさに、また、人の良い誤解から打ち消し難くもはや手に負えない喝采が湧然と起こっていることに照れて、メロスではなく太宰の顔面の紅潮がメロスに転移したのである。奮闘の末に裸同然の姿をうら若い娘に指摘されて顔を赤らめるのではなく、責め苦の化けの皮を剥がれるような気がして、その二重性を模写する血管の膨張が、互角の追跡・遁走となって、魘されるように散文化される。太宰は顔をあからめたいのである。
心中の成功を太宰はあさましがるだろうし、桜桃忌に玉川上水路に巡礼する人々が面はゆいだろう。顔はあからめたいが、移したくなるのであり、しかしメロスはいない。
蛇体を隠した「ヴィヨンの妻」の待ち侘びることとして責め伸びて来る追跡を躱すようにしてする誘惑は、追跡の道筋がいつの間にか器官の延長としての他の誰かにずれるように誘導することである。蛇体となって駆り立てる媒体性(としての責め苦)が妻に降りかかる姦通や強姦といった操守の頓挫となって顕れるように遁走・誘惑するのである。蛇体は、追い詰めてみたら他の誰かに抱き竦められてしまっていて、あさましがる。人知れず、太宰とヴィヨンの間に感染がおこり、あさましがり、顔をあからめる。


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