Wednesday, June 30, 2010

碧痕4 もう一つの富嶽

4 もう一つの富嶽
 思いがけない場所に覗く富嶽が方角を見失わせ、磁場や重力の定位を崩す限りで、それは概念的・歴史的に到達・保存された程度としての成層火山でもなければ日本三名山の一つでもない。それは地獄を通して瞬間移動するのであり、狐につままれたように、直しさを鎧うほどの寿命に達しない。
 三次元の具体には、それを断面とする四次元の、その第四の次元が隠れている。それは時間ではない。具体にかかる時間とは、具体に幅(寿命)をもたせる平均性、飛躍としての通過性であり、もう一つの次元(予期・命令としての奥行)が潜伏している限りで、その具体は出来事になって定位し、奥行としてのゴーストの、その潜伏の効果としての秩序(場所・目的)に落ち着く。しかし、その潜伏している次元が覗くと、忽ち定位が崩れ、落下や宙に浮く、こんなに近いのに遠い、といったふうに報告される裂目に曝されることになる。
 もう一つの富嶽とは、忽如としてもう一つの次元が、その潜伏の効果を解除されて覗くのである。今こうしている間にも物凄い速度で遊弋している第三惑星の観想に於いても忽然と覗く、この闇は、定位されたouter space ではなく、無重力空間も宙に浮く、もう一つの次元が覗いたのである。

Saturday, June 26, 2010

碧痕3「天竺を尋ぬるに茫々として処なし」

3 「天竺を尋ぬるに茫々として処なし」
 伝教というものは他の誰かの舌を通した告白、つまり恐喝であるために威嚇的であり、脅しつけるように説得しかけるのであるが、ゴシック的なものが、日常の惰性的定位や地盤、あてどといった、それと知らず耐え、使いこなされている裂目が剥き出しになって疑わしくなり、宙に浮いてしまう極端に私的な経験の報告をおどろおどろしくするのも、その、発見・反省・啓蒙の効果が、エコーのかかった(すなわち、届けられる音信が発信元にのみ届く)恐喝だからである。
 仏の観想といったものも極端に私的な経験であり、惚恍を以て模写された裂目が転写された思考としての「天竺を尋ぬるに茫々として処なし」は、エコーそのものにエコーのかかった恐喝である。届かなさを届けようと藻掻くのである。
 分業としての恐喝の場合、発信元は殺害される恐れがあるが、殺害されても発信と受信の分業が解除されないままに受信の痕跡が発信元の死体となって遺ってしまう。エコーがかかるのではなく、私的な受信を公的な死体に埋め隠して沈黙がかかるのである。しかし、暴かれたくない秘密を何よりも公けのものとしての死体に隠匿することは、遡上の通路になってしまう。神託が恐喝じみているのは、もとより恐喝が神託の世俗化であるからである。荘厳の世俗化に二つの相、恐慌とグロテスクがあるように、神託の世俗化にも二つの相があり、一つに恐喝、もう一つは推理である。一般化の追いつかない秘密に追いつこうとして遡上するのが、推理である。それは露骨に威嚇はしないが、強迫的に踏む手続き(証言、証拠、供述)の、その共謀の効果は果たして威嚇じみている。この共謀は、神託にかかる陰謀の分割(分業)なのである。
 恐喝を以て複写された秘密を死体に隠す、この二重の複写を通して秘密は自生す(るかの如くにな)る。「釈迦牟尼仏、摩訶迦葉仏に於いて悟る」は、死体に隠された秘密としての(括弧憑きで自生する(かの如くである))仏が自生するかの如くであることを伝教しようとしてエコーがかかるのである。

極端に私的で、直しさを鎧うほどの寿命に達しない仏の観測は、実は、極端に系統発生的な遡上ではないか。一般化が追いつかないように見えるのは、触角が触れる関心の延長が集団の諸水準をはるかに追い越しているからではないのか。

Thursday, June 24, 2010

碧痕2「曙光、曙光としての侵入」

2 曙光(二つの倒錯)、曙光としての侵入
 ユダヤ教と基督教の僅かな差異は、アブラハムの沈黙の旅の度忘れ状態が悪夢であることと、同じ度忘れ状態にする釘づけの磔刑の十字との差異であるが、一方に於いては、悪夢に面してなぶられることこそが微かな曙光の如く倒錯するのに対して、他方に於いては、悪夢の再来が約束されていることが希望の如く振る舞うのである。アブラハムはずっと気を失っていてしかしその間に悪夢は通り過ぎてはいず、他方は悪夢の到来を待ち侘びている。
 この二つの倒錯は、つがい形成の如くである。つまり、ユダヤは迫害を誘うのである。

 ホロコーストの記憶が失われている国では、その埋め合わせに「Alien」 のような映画が作製される。寄生体は他の誰かの身体に顕れるのではなく、「私」の身体に潜み、それを(度忘れするためであるかのように)振り払おうとするとその弾みでそれは遍在しはじめ、総身の毛も太る仕方で肉薄する。絶滅させるべき悪夢となるのである。
 或いは、「Origin of Species」 のような書物が出版される。しかし絶滅する悪夢は疚しさとなって潜伏するのであり、それが絶滅種、絶滅危惧種に転位して地表に漂い出すのである。

 アブラハムが息子イサクを生贄にするなどという異常事態の背後には、契約があるのではないか、と勘ぐる向きもあるに違いない。契約とは、相互に器官の延長となること(分業)であるから、神は(疚しさとなって)潜伏する。この潜伏の二つの効果が、地上のあてどであり、疚しさである。このあてどを、地上が鎧う直しさに置換し、疚しさを悪に置換すれば、更には息子イサクを魂に置換すれば、自然の秘密と魂を引き換えにするファウスト博士と悪魔の契約の話が浮かび上がる。
 佐倉姥ヶ池の伝説では、姥ヶ池のヌシと姫の乳母との間に契約が軽はずみに(乳母の口から出た言葉を聞き取る地獄耳のものがもしかしているやもしれぬことを乳母が考慮していないかの如く)即決され、花が咲き満ちる水草と引き換えに姫はあたら18の年齢になったらヌシに差し出されなければならない。いつか、悪とも良心ともつかず水底に潜伏しているものが迎えに来る、というのだ。「美女と野獣」も同じ系譜のどこかで発生しており、遡れば、約束や契約は、アガメムノーンと生贄になるその娘の場合のような神託の強制の世俗化である。
 神を孕む話は、契約の水準(世俗化)に於いて、拉致する影の勢力が悪魔や水のヌシ、狐狸に零落し、更には寄生体にまでおとしめられるに及んで、俄然猖獗を極めるが、悪疫の猛威・蔓延こそは、曙光としての侵入なのである。

Monday, June 21, 2010

碧痕1「狐憑き、類、生首」

1 「狐憑き、類、生首」
 「私」というものを代表するものは「自由、孤独、思考」のはずであるが、それが「狐憑き、類、生首」である場合、類に矛盾しない範囲で誰とでも入れ代わり、この履歴改竄、器官の延長の断崖の、その延長の末梢に中枢が出現する。その分業のエラー状態に面しての模写発作としての荘厳の、その世俗化は、恐慌、或いはグロテスクである。
 小男のM.ハイデガー教授が靴を鳴らし右腕を突き出してハイル・ヒトラーを決めるのは、なんとグロテスクであることか。ナチズムそのものが、「自由、孤独、思考」が選択された場合の神経衰弱を回避し、「狐憑き、類、生首」の選択であるが、ドイツ的なものは、置き換え難さに面して置き換え易さに面するのではなく、置き換え易さに面して置き換え易さに面してしまう。「狐憑き、類、生首」が、麻痺した「自由、孤独、思考」を兼ねてしまう、この、二重の置き換え易さ、自生する(かの如き)置き換え易さが、グロテスクである。多足類の肢が結集して強靭な顎を形成するように消化のための器官の延長の極限が顎に化して口走るハイル・ヒトラーは、被消化のためと区別がつかない。この、「私」というものの切替は「自由、孤独、思考」が選択する口封じではない。ハイデガーが沈黙するのではなく、ハイデガーを黙らせる、生体反応なのである。
 ユダヤ人の群に悪疫の如くグロテスクが顕れたために、ナチ党に顕れているグロテスクが度忘れ状態である、というような感染が、ホロコーストや根絶やしに於いては猖獗を極める。
 グロテスクはユーモアともイロニーともつかぬ魑魅性であり、「私」というものを代表する(出来事としての)「自由、孤独、思考」のあてど(すなわち「自由、孤独、思考」を脅かすものとして打ち消され疚しさとなって潜伏する媒体性の、その潜伏の効果としてのあてど)が、出来事として「私」というものを代表する、それが「狐憑き、類、生首」である。
 「私」というものの切替とは、「狐憑き、類、生首」が出来事になるために出来事としての「自由、孤独、思考」に乗り移ってしまう不随意の転位である。
 この不随意の転位がハイデガーを黙らせる、つまり、ハイデガーは化けて出る。ハイデガーを代表しないものがハイデガーを代表する、この魑魅性が嗅ぎつけられてグロテスクなのである。

 三島事件のスリルは夢の如くに圧縮された生首であるが、それは蹶起し檄を飛ばす誰とでも入れ代わり、器官の延長の断崖そのものとなって飛ぶのであり、三島の「自由、孤独、思考」としての「私」を脅かすものの潜伏の効果としてのあてどが「狐憑き、類、生首」となって(出来事になって)魑魅性が匂い立つのである。
 苦行として天狗が飛行するように、神経衰弱の回避として三島の生首は飛ぶ。饒舌も沈黙も黙らせる生体反応として、その飛行は、優越の衝動というよりも、拠り処・あてどとなって潜伏するはずの大地や空気、内臓がその潜伏の効果を解除されているために、水の底にずっと留まっていたかのように息継ぎのために急浮上するのであり、それは、輪郭を贅肉となって探し索める肥満体が薄すぎる空気に魘される睡眠時無呼吸症の如く、また、重力が揮発していて臓腑も空っぽで、暗い空洞の奥地に石くれを投げ込んでやがて何かにぶつかる音に耳を澄ますように腹を割こうとするが速度が揮発していて力が入らないのである。息継ぎのための急浮上とは、出来事となった大地・空気・内臓が生首となって、獰猛なよろこびに開く顎と天敵におびえる眼が区別できないほどに位置異常を起こした蛇の如く、三島に乗り移るのである。

 「これは、本当にワーテルローの戦いなのだろうか」というような懐疑も「ハイデガー博士の実験」(N.Hauthorne) も、こうした狐狸の気配の、地獄を通して瞬間移動したような異郷感の報告であるが、「ハイデガー博士の実験」の場合、「これは、本当に私なのだろうか」といった懐疑に転写される。若(返りの)水の効果とは、逆行ではなく、タイム・スリップするような時間の圧縮である。この衝撃は、「狐憑き、類、生首」が「自由、孤独、思考」に乗り移るように神経衰弱の回避として、軟体動物の如く殻(外延的付加物)を鎧って彷徨う「若さ」が、外延的付加物を取り込んで骨格として頑固に内蔵したはずの「老い」に乗り移るのである。大地や空気、内臓のように骸骨が潜伏する効果が解除されて、老体が薄すぎる空気に身震いしながら息継ぎに急浮上する、そうした生体反応、仙人の飛行である。ハイデガー博士の実験とは、衝動が素材を間に合わせる即興の、その衝動を暗示に置換することである。小さな紙魚をも素材にして祖父の肖像写真を見るべく催眠術にかかるように、皺をも素材にして若々しい張りがみなぎるように暗示をかけ、究極の懐疑と純粋な嫉妬としての時間の圧縮(a life-time crowded into so brief a space) を誘導するのである。