Friday, July 30, 2010

碧痕13 鞄の中身

13 鞄の中身
 魚類の成れの果てが四足歩行に踏み切ったのは断崖を攀じ登るが如き冒険だったが、二足歩行は更に手放しするのである。その、ゼス・キリシトが水上を歩くが如き曲芸から、器官の延長と分業とが、秩序と日常的惰性、法則的到達・保存と歴史的到達・保存とが展開したのである。擬態である。
 擬態のエラー状態(失調)とは、擬態が秘密ではなくなるのである。その如何わしさ、「法王庁の抜け穴」(A.Gide)に於いては、法王がにせものであるかも知れない如何わしさを通して俄然、世俗の基盤としてかかる妥当性は今にも踏み抜きそうな薄氷のようなものになってしまう。ぞっとする気配か、狐狸の気配が、陰謀の気配として肉薄するのである。同じようにして、「贋金つくり」(A.Gide)に於いては、「私」を代表する「自由、孤独、思考」が霊感の如くにではなく、他の誰か(ローラ)の身体を通してやって来る、つまり盗まれてしまっているかの如くであること(純粋な嫉妬)を通して俄然、物語る声は他の源泉から管を通されてしまう。生贄であることが、他の誰かの身体(ベルナール>エドゥワール>ローラ)に狐憑き状態として感染しているために、物語る声は度忘れ状態なのである。この度忘れ状態が、遍在する窃視である。
 ローラの頭と舌を通してやって来るエドゥワールの思考、ベルナールが「運命的好奇心」から(催眠術にかかっているように)覗き込むエドゥワールの鞄の中身として保存された<贋金つくり>やベルナールの母の密通の果実としてのベルナールの出生の秘密を保存した手紙、ベルナールの窃視を予言するように覗き返す<贋金つくり>、こうした入れ子状態の秘め事は極端に私的で一般化が追いつかないが、系統発生的には追い越されていて、それが、覗き穴が盗まれることである。
 部分が全体を代表する(媒質としての)提喩性が真空化して宙に浮く擬似奥行、それが鞄の中身としての<贋金つくり>、訂正不能の現実である。ヴィーナスの姦通の果実としてのエロスがヴィーナスの姦通に先立つ、この、天空の到達・保存の衝動、それが、ベルナールの冒険としての鞄の中身である。
 ベルナールが母の密通の果実であることを疑わないのは、そのことが秘密の手紙を盗み見ることを通して単に隠れていたものが顕れた効果に包まれているか、或いは、冒険に出るために私生児でありたいか、どちらかである。そもそも、そんな手紙がなんのために保存されていたのか、ベルナールは問わない。いつかベルナールが覗き込む、その窃視の瞬間に誘惑されているからだろうが、この誘惑には「運命的好奇心」が対位し、出生の秘密を覗き込むことを通して、神経衰弱か、或いは履歴改竄がベルナールに感染する。この感染が、ベルナールが冒険に出る弾みである。
 「マヤの色もあやな襞のようなものを、<エグゾチスム>というのだと思う。その前に立つと、われわれの心は無縁の存在のように感じられ、心の拠り所を奪われてしまう。」(「贋金つくり」岩波文庫)ベルナールの母やローラにとって冒険とは、ヴィーナスがかかること、擬態としての「自由、孤独、思考」が解けて媒体であることに連れ戻される真空化、何か不易で一貫したものとしての「私」というものが脅かされる遠方と夜の出会う効果、<エグゾチスム>である。
 鞄の中身を覗き込むベルナールの顔面は、この<エグゾチスム>を模写するのである。表情というものが顔面の模写発作であるように、表現は現実に面しての私的痙攣であり、本物が出現すると同時に失踪するのは、現実が本物だからではなく、そもそも現実というものが制圧の果実であるのにそのことを打ち消している、その拮抗の気配を私的痙攣が模写しているからである。エドゥワールは私的痙攣を以て<エグゾチスム>を報告するが、<エグゾチスム>が他の誰かの身体に顕れているために度忘れ状態になるのは、つまり、遍在する窃視は、ベルナールの(何か不易で一貫したものがバラバラになる)冒険であり、エロスの如く後れて来るのに先立つのである。
 <エグゾチスム>、寂漠、霊感は色違いの真空化である。エドゥワールがオリヴィエやローラを通して呼吸し、ベルナールやパッサヴァンを通して対位あるいは対立的に(かけはなれたものを通して転写)呼吸し、時計が時刻を告げるのを機にまるで歯車仕掛けであるかのように動き出すラ・ペルーズ老人を通して呼吸する、というように他の誰かの身体に狐憑き状態が顕れて何かが(そのことが)喉元まで上り詰めて来る度忘れ状態(もう一つの狐憑き状態)に於いて、その狐憑き状態が噴き出さないように鎧われていた「私」というものはバラバラになる。操り人形に背筋が通っていたのは「私」というものを鎧っていたからであるが、操り人形がバラバラになるのではなく、「私」というものが解けて誰とでも入れ替わるのである。この履歴改竄(遍在する窃視)がベルナールを通してエドゥワールが呼吸するかのようであるのは、物語る声の断面に過ぎない。「神アブラハムを試みんとて之をアブラハムよと呼びたまふ彼言ふ我此にあり」というのはまるで盲目が手や杖で探るのに応答するかの如くであるが、同じようにして、ベルナールの「運命的好奇心」としての窃視は応答する。その顔つきは、「瞼は半ば閉じられたが、目の奥には異様な焔が燃えていた。顳には小皺がより、唇はきっと結ばれ、緊張で顔全体が上の方へ吊り上げられた]というふうだろうが、これは、ベルナールが私生児であることを秘密にしていた父親にして予審判事プロフィタンディウーが贋金の情報をエドゥワールから耳にしたとき顔面に顕れた発作であるが、到底随意につくれるものではない。
 遍在する窃視(物語る声)と贋金が被造物の複写能・履歴改竄から派生するように、ベルナールとその天使はエロスの分割である。地獄から管を通されてベルナールの背筋が通らないのである。「ソルボンヌの校庭で、彼は、自分と同様試験に合格した級友の一人が、仲間から離れて泣いている姿を見た。その級友は喪服を着ていた。彼が最近母を亡くしたことを、ベルナールは知っていた。同情の気持ちがむらむらと湧いて来て、彼は孤児の方へ近づいたが、ばかげた羞恥心から、そのまま通り過ぎた。相手は、彼が近づいたと思うと通り過ぎてしまったのを見て、泣いた自分を恥ずかしく思った。彼はベルナールを尊敬していたので、ベルナールに軽蔑されたのだと思い、悲しかった。」まるで太宰のようだが、こうした脱臼、腰砕け、滑稽が、既にして天使の出現の前兆である。「ベルナールはリュクサンブール公園に入って行った。・・・空気は生温かいと言っていいほどで、もう落葉した大木の梢越しに、青空が彼に笑いかけていた。本当に冬が近づいているのかと怪まれるほどである。さえずる小鳥も、勘違いをしているのだろう。しかし、ベルナールは、庭など眺めてはいなかった。彼は、目の前に、人生の大海が展けるのを見ていた。海の上には、幾つもの道が通じていると言われる。しかし、その道筋は、目には見えない。」そんなふうに思いに耽っていると、天使が、波の上でも歩けそうな軽い足どりで、滑るように近づいて来る姿が見えた。それまでに天使を見たことはなかったが、天使は<来たまえ>と言った、というのである。天使は、生贄であることと、生贄であることが他の誰かの身体に顕れることと、役に立つこと(これは頗る「利己的」で背筋が通ることであるが)、これらの選択か、その間を活くことを暗示しかけるのだが、この夜通しの葛藤(天使との組打ち)は、はた目には(それを何も言わずに見ていたボリスには)ドタンバタンあばれまわる不思議な祈りにみえる。
 ラ・ペルーズ老人は顳に銃口を当てたことがある。引き金に掛けた指に力が入らなかったのは、怯懦からではなく、操り人形にして背筋が通っていなかったからで、というのも、ラ・ペルーズ老人が眠ろうとすると壁から何か音がし、それは耳を澄ますと消えてしまうというようなものではなく何だか分からない音だったのだが、実は、ラ・ペルーズ老人の身体に張り巡らされた管を血液が流れる音が壁腔を胴体にして増幅されたものだったのである。つまり、ラ・ペルーズ老人の身体は空っぽだったのである。そのことに気づいて身体が戻って来ても、もはや自由にはならない。動機そのものが誘導されていることに被曝してしまっているのである。しかし、オリヴィエの場合、催眠術(感激、霊感)にかかったように自殺しかけている。ボリスの場合はどうか。ブローニャには天使が見えるという秘め事、実は、ボリスが護符を以て封じ込めようとしていたものは、淫らな狐憑き状態ではなく、ブローニャには天使が見えること、そのことに跳び移っていたのであり、とって代わったこの新しい秘密がブローニャの死を導くのではないが、それは冒涜としてブローニャを汚し、この冒涜が新しい秘め事になる。異端審問の如くに肝試しにかけられたボリスにとって、銃弾が込められているかどうかが宙に浮いてしまうのは(どうでもいいのは)、ボリスの、その「私」そのものが護符になろうとしているからである。ボリスが決然と十二歩かけて白い円に進むのは「私」というものを鎧って背筋が通っているからではなく、それが護符の転写だからであり、十二歩目に「私」を鎧ったボリスは忽然と白い円になって、その極端に私的な封印を以て、何も説明できないようにしてしまうのである。「場所は、床の上に白墨で円が描かれた。それは、自習室の、教壇の右手、以前は丸天井の入り口に開いていたが、今は締切りになっているドアのところの一隅だった。時間は、自習時間ということにする。全生徒が見ている前でやること。」ボリスがすわっている席から、白墨で印をつけた場所まで、ちょうど十二歩、決行するのは、六時五分前、生徒たちが散らばる直前、悪ふざけに気分が悪くなったフィフィは歴史のノートの下半分をやぶいて「ピストルに弾丸がこめてないことは、確かか?」と書いてジョルジュに渡し、更にそれはゲリに渡ったが、ゲリは肩をすくめ、その紙片を丸めて、白墨で印をつけた場所まで弾き飛ばす。ボリスは、十二歩かけて、しかし、その、ゆっくりした足取りは、自動人形の如く、夢遊病の如く、地獄から管を通されていたのである。白い円は、場所でも、場所を占める出来事でもない。
 ボリスの十二歩の、どの一歩も自由ではなく、しかも十二歩かけながら礼拝する如く白い円を繰り返し(十二度も)訪れる。ボリスが祈ろうにも祈りの言葉が見つからなかったのは、十二歩かけて十二度訪れること、距離や速度、重力の揮発が祈りだからである。白い円は、転移する秘密を拘束する、その拘束(命令)が疚しさとなって潜伏する効果としての場所(あてど)と、その効果が解除されて宙に浮いたあてどなさの間に彷徨う。三面記事のような事件、事故、動機では説明が追いつかない。しかし、系統発生的には追い越されている。それが、極端に私的であることを不正として包囲する迫害としての肝試しであり、生贄であることが他の誰かの身体に顕れたためにそのことが度忘れ(しかし、喉元まで上り詰めて来ている)状態で「私」というものがばらばらになる(他の誰かを通して呼吸する)遍在する窃視を以て物語る転写ではないが、秘密の死蔵としての解体を以て狐憑き状態を転写することである。

Monday, July 26, 2010

碧痕12 真空化

12 真空化
 金融が奇怪なのは、或る価値の貨幣を以てそれ以上の数量の同じ価値の貨幣を贖うことを通して価値の下落した貨幣が(それとも知らず)流通することである。やがて、それは忽如として伸び切ってしまう。その価値以上の価値で流通しようと足掻くことに於いて打ち消されている背伸びが、祟るのである。それは、蜥蜴を代表すると同時に代表しない尻尾のようにとっくに切断されて行方知れずになっていたのに忽如として覚醒し、本物であると同時に偽物であり、器官の延長としての偽物に出現すると同時に失踪する本物の、この分業のエラー状態の露頭に面して(更には、貨幣の失語状態に面して)、懐疑としての生体反応(模写発作)が、恐慌である。器官の延長としての被造物(服従)に出現すると同時に失踪する命令の、その分業のエラー状態の露頭に面して(更には、媒質としての平均性の失調・真空化に面して)、懐疑としての生体反応が華厳であるように、被造物の複写能を模写して自生する(かの如くである)貨幣の、その二重の失調は、木の葉のように薄っぺらくなってしかも肉薄する。貨幣の、その曖昧であることの本物じみた厚みが念写されて鏡面やTV画面に(狐狸の気配に)閉じ込められたかのようである。この世のものの厚みが次元減衰して取り出せないのである。
「これは本当にワーテルローの戦いなのだろうか」という懐疑は、平均性の失調であるだけでなく、器官の延長の断崖の(この世が終わっている)次元減衰でもあるが、このようにして、法則的到達・保存も歴史的到達・保存も失調し、媒質としての平均性、提喩性が真空化しているのは、恐慌の消息でもある。
 荘厳、恐慌の、その媒質の失調・真空化は、大気が寂漠に変わる真空化の如く、或いはまた、媒質としての大地が剥き出しになる大地震の、その、薄気味悪く(誰カガ揺サブッテイルミタイニ)肉薄する真空化の如くである。
 お蔭参りとしての「ええじゃないか」は、勤王攘夷のように狐憑き状態の遡上であるが、本源は失踪しており、木の葉のように薄っぺらくしかも頭上にのしかかるのが、降札である。大義が、大地震で次元減衰してしまう大地のように今にも踏み抜きそうな薄氷となる真空化に面して、懐疑としての模写発作である。それは、身分、性差、形態といったこの世の差別(秩序)を踏み越える失調である。音響、運動、光明が具体となって出来事になるために打ち消され、疚しさとなって潜伏する、その潜伏の効果としてのあてどが、沈黙、静止、暗闇となって露頭する(あてどなくなる)応答であり、上位の出来事はmetamorphosis 、下位の出来事はmetaphorとして対位する。起源が出現すると同時に潜伏し、しかも露頭する、そうした遡上である。

Saturday, July 24, 2010

碧痕11 The Elephant Man(David Lynch)

11 The Elephant Man(David Lynch)
 迫害に面して、I'm a human being と空しく叫ぶエレファントマンの正当な鏡像(ホラ、コレガオマエナンダヨ)は負の鏡像であり、この二重性がそのまま暴れるノイズであり、このノイズに寛容でいられない勢力を図らずも脅かしているからこそ迫害される。エレファントマンは、私ヲ見タモノハノコラズelephant manニナレ、と図らずも呪いをかけていて、迫害は感染を避けるためであるが、のろいは感染する。
 エレファントマンの秘密である極度の過剰を覗くようにエレファントマンの被る頭巾は誘惑するが、それは、鶴女房のように覗き返す瞬間へ誘惑されているのであり、しかし、他の誰かの身体に感染させようとするのは、エレファントマンの過剰や鶴女房の二重性といった畸形性ではなく、I'm a human being や私ハアノ時ノ鶴デスといった擬態と告白(叫び)に打ち消されて潜伏してしまった生贄であることの、その祟り返し、すなわち、置き換え難さに面して置き換え易さに面してしまう生体反応としての神経衰弱である。エレファントマンがhuman beings最後の一人であることを他の誰かに感染させようもない、この届かぬ思いこそは毒を盛ることであるが、なおも届けようとして叫ぶのであり、その叫びが声にもならないように吸い取ってしまう勢力こそは、もう一つの祟り返しである履歴改竄、誰とでも入れ代わる生体反応としての迫害である。エレファントマンが擬態を解いて遡上するか、履歴改竄を以て神経衰弱を乗り越えないないのならば、その秘め事を迫害が(系統発生的に)包囲するのである。

Tuesday, July 20, 2010

碧痕10 無重力状態の数

10 無重力状態の数
 自然数(基数)と素数とは、どちらも無限に出現するとして、一対一で対応するだろうか。
 基数は出現する。それは場所・目的を占める出来事なのである。この出来事のあてど(命令の潜伏の効果としての場所・目的)が、序数である。
 基数を辿れば時折り顔を覗かせるに過ぎない素数が基数と一対一で対応するはずはない。しかし、序数と素数は一対一で対応する。
 あてどとしての序数はそれと知らず使いこなされている限りであてどであり、その限りで基数は惰性に包まれるが、それが剥き出しになると、数の大小が失調してあてどなくなるのである。数の無重力状態とは、このような裂目(あてどの失効)である。

 有限な数量が無限に微分できるかの如き観を呈するのは、序数と基数の混同からである。これは、あてどとしての場所と対象としての場所(土地)の混同の、変奏である。
 対象のあてどは対象を出来事にしておびやかす(祟る)。無限の微分とは、基数が序数に不断におびやかされているということである。
 巨大素数が厳重に保管されているのは、それが出来事であり、歴史的発見(負の到達・保存)は私的であるからであり、巨星のように本物は失踪して冥府のものであるのに、二重の模写としての保管(世俗化)によって自生する(かの如くになる)からである。つまり、盗まれる恐れとあてどなさとが、跡形もなくなる恐れと跡形もなく脅かされていることとが、祟られるように区別されずに、盗まれたり紛失してしまう恐れそのものが厳重に保管されるのである。

註1 運動であれ静止であれ直しさを鎧った具体は無限に涌き出す中間点を踏破する、というよりは飛躍する。中間点そのものが通過するのであり、どの中間点とも入れ替わる。エレア学派は、あてどとしての中間点と対象としての中間点を混同し、更には、中間点を数え切れないことと到達しえないこととを混同しているのである。出来事としての中間点が予定調和的に無限に涌き出すにしても、その、どの中間点もあてどとしての中間点を占めている。あてどとしての中間点は、そのあてどを占める出来事を脅かすものの潜伏の効果であり、微分を許すのではなく、出来事に飛躍的な通過性を鎧うようにするのである。
註2 地上の各言語は、複素数の解があるような高次方程式の解であると考えられる。複素数の解であるような言語は、この世に顕れていない暗黒言語として対位する。ベンガル湾の或る諸島に散在する部族にはそれぞれの母語があり、そのうち二つまで、その言語を話す最後の老人が相次いで死亡して消滅したと報じられたのは、2010年初頭のことであるが、しかし、消滅したかどうかは疑わしい。神経衰弱であったその言語が孤独(擬態)を解いて、しかし素材が間に合わせられなく度忘れ状態なのである。
 同じ年、暗黒物質の探索が熱を帯びて来ているらしいが、重力の源を専ら物質に限るのは、狭量である。物質が落ち着くのは重力だけによるのではない。離人症ではしばしば重量が揮発してしまう。速度も揮発してしまう。宇宙飛行士が直面する無重力は程度としてのそれでしかない。その無重力空間そのものが宙に浮くのではない。しかし宇宙飛行士のなかには、宙に浮いた無重力空間にでくわすものがいたらしい。そうした裂目は、神とかUFO とかいった臨在の気配を以て報告される。譫妄じみてはいるが、事態は法則的到達・保存でも歴史的到達・保存でもなく、分別やcommon senseでは手に負えない、究極の懐疑としての無我なのである。

Saturday, July 17, 2010

碧痕9 秘め事

9 秘め事
 秘め事を織り込める鶴女房は、覗くように誘惑する、その覗き返しを以てその窃視の瞬間へ誘惑されているのであり、雪女の如く、秘め事を分かち合うこととして、毒を盛るのである。つまり、この秘め事は極端に私的で、その白い羽、白い息に一般化が追いつかないのであるが、それは、感染して保存されるのである。

 吉野山の桜に出くわすのは、白い息を吐く丹頂鶴や、遠い轟が忽如として瀑布となってたぎり落ちる長目に匹敵する。程度としての物凄さではなく、隠れていたものが顕れる効果というよりも、この世ならぬものの忽然とした出現で、それは場所を占める出来事ではなく、重量も距離も実相も失調しているが、津々浦々に咲き継がれる桜は、吉野山の桜を移そうとする限りで、その世俗化は、吉野山の桜を自生する(かの如く)歴史的にし、範疇が追いつかない失調の密かな目じるしとなるようなモニュメントでもあって、まがいものとしてのその歴史的負の到達・保存というだけでなく、跡形もないその失調の沈黙の応答が、通奏低音的に大仏の気配のように遍在してもいる。そのようにして、桜はつづく。

Wednesday, July 14, 2010

碧痕8「高野聖」「November Step」

8 「高野聖」「November Step」
 多足類の肢が結束して強靭な顎を形成した如くに、その蹇の下肢が麻痺しているのは下肢が位置異常を起こして陰茎を獰猛にしているのである。山中の一つ家で二人はまぐわう。囲繞する山の魑魅が、息をひそめ、固唾を呑んでその秘め事を眈々とズーム・アップしていくが、突如覗き返されたとでもいうようにどっと気配づく。罠にかかったのは魑魅の方だが、沈黙を音響に転写して応答するのである。
 武満徹のNovember Step に応答する場面がある。

Friday, July 09, 2010

碧痕7 白いマリア

7 白いマリア(「法王庁の抜け穴」A.Gide)
 ドアを叩いて誰かが訪れた音がする。それは、廊下に面したドアではなく、隣の部屋に通じるドアでもなく、これまで気づかなかったが街衢に面した側にもう一つのドアがあって、そのドアの方に向き直ろうとして果たして魄(からだ)が言うことをきかない。袍をいだき、蒼白く血の気のない白いマリアがドアを開け放つのであるが、その具体が、服従の運動(魄)であるはずなのにそうではなく、潜伏してあてどになるはずの命令(魂)が曝されて命令の運動(服従の運動(魄))になってしまっている、その二重性のために、方角も距離も失調し、金縛り状態なのである。白いマリアそのものがそうなのである。これは、あてどとしての場所(魂)が具体としての土地(魄)と重なって曝されている失調の変奏の一つである。この潜伏の効果の解除としてのあてどなさは、この世のものの跡形もなさと混同されがちで、無常ということが報告しようとするのも、この世というものの跡形もなさなのか、この世のものの跡形もなさなのか、峻別しようと藻掻くのではない。
 白いマリアは、研究と称して生体実験で小動物の殺生を日々の事とするアンティムを姪たちが憂えて祈りをマリア像に捧げていたが、それを愉快としないアンティムが誤ってマリア像の前腕を掻いてしまい、金属の軸がむざんにも剥き出しになるという昼間の出来事を素材にしているのであるが、この畸形のマリア像の賦活と侵入に、「われを傷つけたるなんじよ。わが手なくば、われなんじを癒すことあたわじと想うや。」という問いかけに、ぞっとするのは、昼間の冒涜を責め立てられたからというのではない。それでは滑稽に過ぎる。
 失調した方角から薄気味悪く迫る白いマリアは、「われ」を脅かす何かが打ち消され疚しさとなって潜伏し、その潜伏の効果が「われ」のあてどになるような何か(闇のマリア)を「魂」とする(と同時にその意味とする)「魄」である。音楽を脅かすものは沈黙であるが、この沈黙が打ち消されて疚しさとなって潜伏するその効果こそは音楽の基盤であり、音楽は沈黙が出現すると同時に潜伏する媒体であるが、そのことが度忘れ状態である限りで、音楽と沈黙は対位し、通奏低音は沈黙を模写しようとする野心として転位する。同じようにして(逆に)、白いマリアにぞっとして総身の毛も太る限りで、それは、白いマリアが「魄」であることの、究極の懐疑としての覚醒(おどろき)なのである。
 このようにして、この白いマリアの二重性は三重である。金縛り状態であり、夢の如く響くのであり、地獄から管を通されているのである。一方、日常に転位した白いマリア像は、通奏低音的に闇のマリアを模写して遍在する如くである。
 ところで、アンティムが邪宗から転ぶのは、突然の発心というものがそうであるように(無常に被曝しつつも、跡形もないものが何なのか曖昧なままに)、疚しさに(闇のマリアに)被曝しつつも、それが脅かすのかあてどなのか曖昧なままに、この白いマリアを負の踏み絵とするに過ぎない。

註1 鴎外が叙述するロダンの、その彫刻は、「魂」を映し出す鏡(媒体)としての「魄」に肉薄しようとするのである。

Monday, July 05, 2010

碧痕6 誘導

6 誘導
 伝教を裏づける共謀の装置(手続き)は、推理を裏づける共謀の装置にそっくり保存されている。ミステリ的なものの系譜を遡上すると、その川上で秘教的なものの垂りに出るのである。その説得法の差異は、恐喝の身振りが韜晦して、或いは勿体をつけて、誘導に変異していることである。それは、迂回しているに過ぎないが、恐喝の保存・隠蓑である。

Saturday, July 03, 2010

碧痕5 隠蓑としての集団感染

5 隠蓑としての集団感染
 流行に於いて、感染としての生体反応は、「狐憑き、類、生首」が、麻痺した「自由、孤独、思考」を兼ねる、無我(の世俗化)であるが、ホロコーストや根絶やしに於いては、他の誰かの身体に感染した「狐憑き、類、生首」は、オマエノコトナンダゾ、といった脅しかけを黙らせるために死体に隠される邪悪な寄生体であり、つまり、この感染は迫害を誘発するのであるが、流行の熱狂に於いては、「狐憑き、類、生首」に集団感染することこそは隠蓑であるような(「自由、孤独、思考」の麻痺を以てする)防衛なのである。

 (系統発生的に、「自由、孤独、思考」は倒錯しているかに見える。目立つ擬態として鎧われるにしても、この甲冑は危険に鋭敏過ぎるのである。しかし、四足歩行そのものが断崖を攀じ登るような危険であるのに更に手放しにする二足歩行に続く実験、つまり器官を延長する分業の実験に於いては、その、到達の衝動(エロス)の屈折を通して、直しさを(擬態として)鎧うほどの寿命を獲得し、保存が化から(その擬態としての)模写に活くに及んで、惰性と伝達の基盤の上に、負の到達・保存を以て、冥府のものなのにこの世に出現する星の如く隠蓑を羽織るのである。)