Sunday, August 08, 2010

碧痕16 天使の目撃 

16 天使の目撃
 浦島や鶴女房の話が、帰還すると迂闊にも400 年も過ぎ去っていたり、指、手、腕、肩、胸が羽毛に翼に、口が嘴に変わっていることを以て伝えようと藻掻くのは、、一般化が追いつかない何かであるが、届きえずして、その、届かぬ事態をこそ伝えてしまう。
 ロトの妻の場合もそうである。滅ぼされるソドムの町を出て、振り返るな、と禁止されたのに振り返って塩の柱になるロトの妻が目撃したのは、激変ではあるが、崩壊・炎上といった光景なのではなく、町を包んでいた媒質としての大気がまるで固体になったかのように疎々しく剥き出しになって息ができない落下である。この落下は、町の日常にかかっていた惰性が解除されて宙に浮く重力の失調と区別がつかない。息をするのはロトの妻ではない。息をしていることに面してそのことが疑わしい究極の懐疑としての「塵」(無我)こそは、沈黙の塩の柱が模写する変貌なのであり、しかも塩の柱は、人の手から人の手へ渡るのではなく脆くはあるがモニュメントの如く、遍在する窃視の質料化であり、だからこそロトの妻は二人の娘を通して(二人の娘を器官の延長として)孕みさえする。
 サライの器官の延長として身ごもったアブラムの使女(つかひめ)ハガルには「曠野の泉の傍らで」一つの身代わりになったヤーウェが、「日の熱き時刻天幕の入口に」坐していたアブラムには三つに分身したヤーウェが、「黄昏のソドムの門の入口に」坐っていたロトには二つの身代わりになったヤーウェが顕れる。それは、疚しさとなって潜伏するヤーウェが盲目の杖つく如くに、汝ハ何處ニヲルヤ、と呼び出す臨在の場所と時刻の報告なのではなく、詛われて離れる感染経路に寄生体が天使として顕れた、その目撃である。

Wednesday, August 04, 2010

碧痕15 ウィンチェスター73・「Alien」・ええじゃないか

15 ウィンチェスター73・「Alien」・ええじゃないか
 千に一挺のウィンチェスター73や虎徹、菊一文字、置き換え難い壷や写本のように人の手から人の手へ渡るものは、写真の如く履歴改竄するのであるが、個々の改竄(発話)の間に「私」というものの如きものが出現し、その「私」がバラバラになる限りで、個々の発話の目撃者として追跡するだけでなく、発話のなかに乗り込んでいく。つまり、遍在する窃視の質料化として目をみひらくのである。
 富岳や太陽太陰、TVが同じようにして(遍在する窃視の質料化として)目をみひらき、大気を寂漠に変えるような媒質の真空化(瞬間移動や次元減衰)に於いて、度忘れ(しかし、喉元まで上り詰めて来ている予期)の状態の、人から人へ渡る質料化が、寄生体で、それは、脳や胃袋に埋め込まれた(或いは、外延的付加物に仕込まれた)発信機の如く振る舞う。
 脅かしかける「Alien」が、遍在する窃視の質料化として、宇宙船に巡らされた配管という配管、壁という壁、空気の組成にさえ潜み、人体という人体、舌にさえ感染しているのは、物語の発信というものを複写している。宇宙船は無重力空間を航行するというより、媒質が剥き出しになって真空化した宙に浮いているのであり、もうひとりいる、というようなぞっとする気配そのものである。
 ええじゃないかの場合、それは狐狸の気配そのものであり、別の幕末に瞬間移動していて、そこからの帰還は迂闊にも(浦島の如く)400 年も過ぎ去っていて、一般化が追いつかない。この踊りの感染が江戸から京へ東海道筋を移って遡上したのは、世を襲う激震が東海道筋の媒質としての地盤を真空化していたからであるが、その裂目は、遍在する窃視の質料化としての富嶽が目をみひらくのではなく、逆に目を閉じて、この失効の埋め合わせに伊勢(太陽太陰)が目をみひらいたのである。しかし、踊り狂う人々が感染している寄生体は夷であり、陶然と踊る人々は陶然と踊る他の人々を通してこの感染を呼吸し、人々の数だけの遍在する窃視が殺到することになる。人々の数だけの「私」がばらばらになり、人々の数の二乗の履歴改竄がふくれ上がった狐狸の気配、それは、狐狸の気配を度忘れした(しかし、喉元まで上り詰めて来ていて予期している)状態が、包囲する脅威として質料化した夷の解除である。

Sunday, August 01, 2010

碧痕14 感染

14 感染
 metamorphosis の媒質が隠喩性の場合の、化けて出る、その媒体性が秘密になると媒体が出現するが、
媒体1 metamorphosis の媒質が平均性の場合を言葉は模写し、
媒体2 metamorphosis の媒質が提喩性の場合を貨幣は模写する。
こうした三つの到達・保存に加えて、第四の到達・保存が感染であるが、これは、媒体性が寄生体となって他の誰かの身体に顕れるために度忘れ(しかし、喉元まで上り詰めて来ている予期)の状態であり、この感染性の場合を模写する媒体が、物語である。というのも、物語ることは、感染がそうであるように、「私」というものがバラバラになることであり、履歴改竄する感染の経路としてのplotは「私」というものを脅かす陰謀であり、分別、重んずること、振り返ることとしての思考が地獄から管を通されて意味や価値、出来事といった重力(の効果)が揮発して宙に浮いているが、しかし、出来事を個別化すると同時に一般化する媒体として物語は流通するのである。
写真はこうした媒体としての物語(ること)の一つである。それは、出来事を静止画像にするために時間を極端に拡大し、劇化するだけでなく、覗き穴の向こう側の出来事に面しては言葉の如く、写真を覗く目に面しては貨幣の如く振る舞う。それは、或る出来事を複写して平均化するだけではなく、その写真に面する目(覗き穴のこちら側)を転写する。それは、覗き穴の向こう側を代表し、しかも覗く側をカメラの器官の延長として次々と複写する覗き穴なのである。覗き穴の向こう側としての写真は、この、覗き穴(ピンホール)としての写真の、その履歴改竄と重なって、物語は二重である。この二重性(裂目)に被曝すると、写真は宙に浮く。サイバー空間に漂う三島の生首は、単に無残に胴体から切り離されているだけでなく、感染の経路が不明なままに地層をなす履歴改竄に無残に擦り切れている、というよりは疲れ果てている。というのも、覗き穴の向こう側としての三島の生首が保存するもの(身体の解体)と、ピンホールとしての三島の生首が保存するもの(寄生体)とがほぐし難く混乱しているからである。明治初期に日本を訪れた誰かが撮影した、こちらを振り向く往来の人々にせよ、ありふれた七五三のカラーの記念写真にせよ、媒体として失効するとすれば、それは、目一杯に拡大された覗き穴の向こう側と、覗かれる側も覗く側も誰でもなくするピンホールとしての写真との、痙攣的な二重性に曝されて失語状態とも恐慌ともつかぬ真空が蔽いかけるのである。写真が薄気味悪く迫る限りでは、覗かれる私的な出来事は一般化が追いつかないが、ピンホールとしての写真は系統発生的に追い越していて「私」というものが跡形もなくバラバラになるのはオマエノコトナンダゾと脅かしかけるのである。