18 放心、放心の回収、嘴
放心とは、他の誰かを通して呼吸する感染のはてに「私」というものがばらばらになる、その極である。物語の終わりに放心を回収することは、散らばった破片の和合ではなく、その断片が「私」というものを代表することでもなく、物語の大気(他の誰かを通して呼吸する感染)を脱するのである。
「愛撫」(庄野潤三)を報告する「私」は、生贄であることが他の誰かの身体に顕れたためにそのことが度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めて来ている予期の)状態というよりも、生贄であることの別の相貌としての誘惑体(能所の区別のない誘惑体)が分割されて他の誰かの身体に誘惑(能)として顕れたためにそのことが度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めて来ている予期の)状態であるような被誘惑が「私」の身体に応答して顕れる、そのようにして分割・感染して保存され、そのようにして「私」がばらばらになるような遍在する窃視の質料化である。この「私」の報告が、言い外すことを以て隠れているものを炙り出す、というふうであるのも、身体に顕れた被誘惑が誘惑(能)と区別がつかないからである。修学旅行の夜の宿屋でクラスエスと二人だけ目が醒めていて抱き寄せられ(誰も知らない草むらで交尾する蛇のように)息をひそめてくっついていたことも、ヴァイオリン教師が「私」の指を撫でることから次第に増長して体の別の部位に触ろうとすることも、オネーギンの如きものを書き上げると宣言はするものの熱のない夫がクラスエスやヴァイオリン教師とのひとには見られたくない場面のことになると俄然つついたり引っ繰り返したりなぶるように(狐を叩き出そうと折檻するように)知ろうとする尋問の情熱も、誘惑体の分割・感染である。スリルは、「私」が何もかも知っているものに導かれて何も知らないかのように誘惑されることである。「私」は焦らすが、ばらばらにもなる。熱に浮かされるのである。それは、少女の頃にシャーウッドの森を疾駆するロビンフッドや海賊フックのもとへ空飛ぶピーターパンが誘惑の相貌で肉薄した熱病のつづきなのである。少女の憧憬、被誘惑のときめきは、誘惑(能)の予期と練習だったのである。
感染の熱がひいて、「私」がつまらない妻になるとすれば、それは、何事もなかったかのようにまた一日が始まることであり、それが、放心の回収である。
庄野潤三的なものの大気は、実は見かけほど日常的でも瑣末でもなく、実は劇的で、それどころか、帰還できないほど一般化の追いつかない変化の気配なのかもしれない。
「西遊記」の場合、三蔵法師の通りかかるのを待ち侘びている妖怪変化は、孫悟空、猪八戒、沙悟浄だけでなく、流された貴種であること(江流)が脅かす相貌で迫り、「愛撫」の場合、誘惑の相貌で迫るのであるが、庄野的なものの、その放心の回収に於いては、熱病の潜伏がはてしもなくつづく。
この擬態の細部は、ありふれていて実は凝りに凝っている。今にも噴き出しそうなのをこらえるのが苦しいほどの端末振りなのだが、庄野は黙っている。いつのまにか放心の回収が取り消されていて唖然としているのであり、口に手をやると嘴になってしまっているというふうなのである。つまり、まぼろしじみた日常を壜に採取してガラスを通していつくしむかに見えて、その標本は、日常振りを観測し、均し、保存し、この世のものにしようとして400 年が経過してしまう。日常にかかる惰性、重力は日常の、その端末性が打ち消されて潜伏する、その潜伏の効果であるが、その端末性に被曝した日常振りは、惰性、重力が解けた跡形もない気配なのである。日常がしかもまぼろしじみているのは、この跡形もない気配の転移に過ぎない。ヒルトンホテル王朝の間で催された夕食会は結婚50年25年15年10年の夫婦がいる一族が勢揃いしたものだが、その記念写真の面々はどれも丸顔ですぐ一族と分かる。おかしいとも薄気味悪いとも報告されていないが、子々孫々というものが端末性に被曝しているのであり、子孫というものは、妖怪変化や誘惑がそうであるように、待ち伏せている。いや継ぎ継ぎにどこまで延びるのか、祖というものは子々孫々を一つの解として顕れてばらばらになる限りで、端末性が子々孫々に感染し、遍在する窃視の質料化であるが、このことこそは、子々孫々の出現が蓋然的ではなく、待ち伏せをくらうことなのである。子々孫々の出現を辿る庄野は、放心、放心の回収、その取り消し、この、祖と子孫の分業とそのエラー状態との回路に繰り返し連れ戻される。それは、子孫が祖を代表する届かなさであり、その届かなさを、空に立ち昇ってかすれる紫の煙の如く模写する連祷である。
記念写真の中央を陣取る老夫婦の片割れ(「私」)は、Vサインを出して末広がる親族の間に、その、ずうっと続いている親族というものの断面に、写っているはずないのに写り込んでいる、或いは、現像したら写っていなかった、というように質料を羽織っている。つまり、他の面々を通して呼吸しているために端末性が度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めて来ている予期の)の状態である。一様に(堅固に、或いは愚直に)小判顔であるが千変万化の面々の間に出現する祖をどの子々孫々も代表するために、一族は勢揃い以上に膨れ上がる。この記念写真は、親族というものの運動を静止画像になるまでに極端に拡大しているだけでなく、端末性に被曝する、その生体反応としての荘厳を、更に発作的に模写して、一族の和声としてのVサインに世俗化する。しかし、この生体反応としてのVサイン(グロテスク)も易々とはこの世のものにならない。何か違う気配が自生する(かの如くである)ことの目じるしに留まるのである。
こうした目じるしとして発声されるものに「南無八幡大菩薩」(あなたふと)がある。しかし、庄野が目じるしとして発声するものは、迂闊なほどにささやかな(しかし揺るぎない)端末である。南足柄の、とか、ニュートーキョーの「さがみご膳」・きびなごの空揚、とか、吉田牛乳の集金、氏家の梨、フランスパン「パリジャン」の耳、ビブレ三階、明石のいかなごの釘煮、等々、それらは選び抜かれていて、ささやかな善哉と幸を代表して、そのどれにも、ありがとう うれしい おいしい がつき添う。かなしい が混入しても、善哉と幸は、一族の不易の(頑固な)小判顔の如くである。その相貌は、屋根瓦にさえもぐりこむ藤の蔓のように、舌鼓、ネコの舌舐めずりのように獰猛であるはずなのに邪悪な天敵の気配に竦む兎のように身を差し出てもいて、そのために善哉と幸は、大きな魚の胃袋にそれよりも小さな魚が次々とおさまっているような気配なのである。
連祷に於いて、善哉と幸の目じるしを列挙することは、ささやかな習慣をささやかな出来事にすることでもある。凡庸に均す日常は法則的到達・保存であって歴史的到達・保存ではない。庄野の連祷が小説(小さな要請)であるのは、日常の、命令として潜伏する習慣ではなく具体として顕れた習慣
を平均性で包んで保存することから、その具体が鎧う寿命を剥奪して負の到達・保存へ活くことである。一族の生活の端末を、その端末の歴史化と引き替えにするのである。これも、日常をまぼろしじみたものにする。端末は選び抜かれ、別の重力に包まれるが、跡形もないモニュメントなのである。 三回目の散歩、春と秋二回の墓参と中之島グランドホテル939 号室、スーパーOK、銀座伊東屋、大久保の「くろがね」、宝塚月組の公演、新年会、ワセダ穴八幡・柿生のだるま市、牛肉の脂身をつつきに来る四十雀、椋鳥よりもついえこ贔屓してしまうシベリアからのツグミ、ハーモニカの伴奏で妻が歌う文部省唱歌「冬の夜」や「早春賦」、こうした法則や星座のように配置された習慣は、輪郭を崩そうと覆いかぶさって来る闇を押しのけようとするが、その抵抗の方向を平均すると、果たして落下であり、ところが、この落下が柔光に包まれているのは、それが重力に基づくのではなく媒質としての重力の揮発だからである。溶暗に耐えているのだが、化かされているのでもあり、何だか分からない。それは、猛威を振るう文部省唱歌が陸軍礼式挙手の如く何ともいえない和解であるのに酷似している。
善良(善哉と幸)、つまり、獰猛で酷薄であるが身を差し出してもいて打ち震えている、そうしたいとなみが駆り立てられている方には、むかしばなしの核が息づいている。桃太郎を孕んだ桃のような、生殖と捕食の夢のような複合・圧縮であり、捕食と被捕食の収斂である。花果山の堅果、漿果の豊饒を極度に圧縮した仙石が孫悟空を孕んでいたのも、話の発端にいきなり遡上があって、その収斂が分割され、器官を延長して話は展開するのであるが、逆に庄野的なものは、生殖と捕食のために器官を延長し、他の誰かを通しても器官を延長して、末広がりの子々孫々と津々浦々から届く海の幸山の幸とが夢のように圧縮された核が、接近に感応して光り出す、そうした接近の途上なのである。しかしどちらであれ、川上から流れて来ることは遡上なのであって、天竺への途上にあることも子孫が祖を孕む発端に連れ戻される遡上なのである。
生殖と捕食と被捕食を夢のように圧縮した核、接近に感応して光り出す発端がそれともなく析出し、報告されている。
1 早春シベリアへ渡るツグミの、その、どこかにある、(心臓の鼓動が高まっている)集合場所
2 ガーネットの小説の或る場面: (狐になり果てた)妻に本を読んで聞かせていた夫が、ふと妻を見ると、妻は鳥籠の小鳥を横目でじっと見ている(大阪のラジオ放送局にいたころ、この場面を、私は(「私」は、夫になり、妻になりして)同僚に話して聞かせたことがある)
こうした核に、黄袍がペロリと吐き出した鶏卵ほどの大きさの、精気を煉りに煉り、幾度となく雌雄をかけあわせて輝くばかりのひと粒の珍丹にふしぎな縁で悟空が出くわすように、待ち伏せをくらうのである。感応して光り出すのであり、響くのである。
3 「がちゃがちゃ」は、雌のとんぼを囮にして取る方法で(「夕べの雲」)、「ぎい」(雌雄二匹つながった状態のとんぼ)から雄の「らっぽ」を逃がして、雌の「べに」(翅の色の濃いものは「どろ」「ぎんどろ」といって)その胸を糸で結え、身体のまわりをゆっくり旋回させ、「らっぽ、ほーえ、らっぽ、ほーえ」というと、「らっぽ」が来て、二匹は空でからまって落ちる。「がちゃがちゃ」は交接の音の擬声だろう。「ぶり」はもうすこし高級なわざで、小さな石ころを紙に包んだものを二つ、手頃な長さの糸でつないで、空中に放り上げて、飛んでいるとんぼの体にからみつかせる。
一体、多摩丘陵の、その一つの丘の上で、すでに2040年ははじまっているのに今を主張して被曝している庄野家の出発そのものが、渡りの集合場所のようなものであるが、生殖と捕食と被捕食の夢のような圧縮は、このように、記憶としても析出している。誰もが空でからまって落ち、からみつかれて落ちるのである。雷電に被曝する如く。