Tuesday, September 28, 2010

碧痕21 小綬鶏、思いがけない附録

21 小綬鶏、思いがけない附録
 「野鴨」(庄野潤三)の基調はグロテスクである。栽培植物としてのトウモロコシがこの世ならぬ野生のトウモロコシに連れ戻されていることの変奏であり、2040年の気配に被曝した一族が、その正体を小綬鶏としてあらわす話である。
 それは、次男に「誰かがいる」という薄気味悪い気配となって脅かしかけもすれば、多摩丘陵に鉄砲を担いで小綬鶏撃ちに入った河上徹太郎のそばから、発砲されるごとに小綬鶏に戻って庄野がバサバサ羽打ちをおこし飛び立ってしまいそうにもなる。或いは、二羽の小綬鶏となって(晩年の、四羽の飛来を前触れて)庭に飛来する。
 しかし「野鴨」のみかけは何の変わり映えもしないのであり、精々カノンの常習である。新奇・変化への要請に屈し、その欠如を恐れるあまり、あやうく2040年が既に始まっている気配を失いそうになる。この関心は強いがしかし漠としており、忽如、上の兄が出て来る夢になる。そこで何を話したのか跡形もないのであるが、その、何か懐かしい夢が顕在化するために打ち消されたものが或る記憶となって不随意に浮上する。それは、兄と映画に行くのに喫茶店で待ち合わせた記憶、不良のように見られるのを恐れるあまり人目を避けたために、気づかれるようにしなければならない本分をおろそかにしてもう少しで時間に間に合わなくなりかけ、叱られた記憶である。
 優先する大事は、駆り立てるものは、あの、跡形もない真空化の気配である。庄野の舌は、この、この世ならぬ気配を伝えようとするそのそばから嘴になってしまう。この世に帰還しない。だからこそ「野鴨」は、この気配を二つに分割してこの世に送り込もうと決意する。すなわち、トーテムとしての小綬鶏、そして「思いがけない附録」である。
 2040年の気配を吹きつけられ今を主張してこらえている一族に降りかかる出来事、拘束する習慣・精神は、ラグビー観戦の日に胸にしみたイチョウの黄葉、その、贅沢に散り積った落葉、踏みつけられて粉々になった葉屑のあつみが、その日の思いがけない附録であったように、生きることの思いがけない(従って半ば予期されていた)附録であり、ラグビー観戦そのものが思いがけない附録なのである。
 小綬鶏と「思いがけない附録」が収斂する限りで、「野鴨」は、そのような思いがけない附録があちこちで光り出している、その光の採取、落穂ひろいのようなものである。

Friday, September 24, 2010

碧痕20 2040年は既に始まっているという気配に被曝して

20 2040年は既に始まっているという気配に被曝して
 私小説を方法にする虚構は、「私」の生活を報告することに(覗かれることに)照れている。視線をこらえ切れずについ腕時計を見たりする、そのようにしてうそをつく。騙そうとしてうそをつくのではなく、痒くもないのに頭を掻くような転移発作としてのうそ、うそが好きでうそをつくのでもなく、当惑からうそをつくのである。半ば当惑から半ば方法から、妻が「狐になった夫人」や「青春・台風|を読むことになる。一方、こうした秘密は、一般化が追いつかないというのではなく、黙ってもいられない。あまり素朴にならないようにと、覗く人々につい警告を出してしまう。しかし、こうした虚栄は、私小説を方法にする虚構を半端にしてしまう。虚構の気配を消してしまうことこそは、虚構(小さな要請)のはずである。
 ある童謡の作曲者ルソーがあの「告白」のJ.J.ルソーであると知り、そのルソーが、なんとしたことか生まれた子供を次々と捨子にしたと知って「庄野夫妻」が唖然と顔を見合わせる、その素朴さは、告白を方法にする虚構のえじきであるが、こうした素朴さこそは、如何わしい妥当要求をそれと知らず使いこなしている。それが日常なのである。
 「西遊記」の縦横無尽の法螺は、逆に、天竺が途方もなく遠いことを以て、妥当要求の如何わしさを暗示する。天竺が姿を顕しても、隠れていたものが顕れる効果に包まれるに過ぎなく、妖怪変化の腥い息がかかっていないとは証明できないのである。それは、どこまで遡っても「告白」から追跡と陰謀の気配を消せないことに通底している。
 空想ではない日々の生活の報告を保護する津々浦々の人々、庄野夫妻の庭の水盤にくりかえし四十雀やメジロが来て水浴びするように庄野が同じ話を初めて話すかのように話すのをよろこぶ人々は、その話が自生して(いるかの如く)いつの間にか伸びたり消えたりするように育てる。この日々の生活は、野生のトウモロコシではない。うさぎのミミリーや、山田さんの鈴虫、ハムスターのパールや犬のジップのように飼われる、寄生の実験なのである。野生のトウモロコシは知られていないが、栽培されるトウモロコシはヒトに取り憑いて(器官を延長して)繁殖を拡張するのであり、実は、獰猛である。
 ところで、2040年は既に始まっているという気配が退かないとすれば、その気配に被曝して今を主張する日々こそは野生のトウモロコシであるが、野生のトウモロコシを見たと報告しても、それは届かない。この報告は、細部に丹精であろうと大雑把であろうと、或いはうそを以て簡素に模写(抽象)されていようと、野生のトウモロコシの気配を消すことだからである。野生のトウモロコシを撮影しようとして野生のトウモロコシの気配を消してしまうことは、日々の生活を報告しようとして虚構の気配を消してしまうことに祟り返している。2040年の気配で宙に浮いた日々の生活は実でも虚でもないのに、一旦分割が入り込むや、その化かし合いは、打ち消されて疚しさとなって潜伏した虚の、その潜伏の効果こそが実であること、そのことであるが、私小説(を方法にする虚構)はこのことの度忘れに基づいていて、実は、虚構というものは不随意に展開するものなのである。

註1 実・虚→実(虚) 天使を見たことがあるか、という経験の問はそのまま失効する。
   実(虚)→実( )寿命を鎧った地上のもの、という応答は擬態の度忘れ状態に基づく。
 「夕べの雲」(庄野潤三)と呼ばれる混乱は、こうした問答である。
註2 被曝とは、地上のものが鎧った寿命が(従って場所や死滅が)解けるのである。「夕べの雲」にはきのこ雲が騰がっている。しかしそれは、地上のものを破壊するのではなく、地上のものが鎧っているものを揮発させるのである。
註3 日々の生活の、その吉凶、明暗、去来の報告をどのように庄野はカノンにするか。人の摂食の習性、渋く堅い皮のあるものは剥き、種のあるものは吐き出す習性を以てである。日常の、その大気(蜃気)は人をあざむき、捕食する。日常は蜃気の、その大きな口と胃袋の気配を消した罠であり、迂闊に留まると消化されてしまう。その丸呑み込みに抗するようにカノンは、人の摂食の習性を以て日々の生活を模写して延びる。
註4 フーちゃんが来て、人形やぬいぐるみなどで妻と遊ぶのをそばで見守る、二人が書斎の方へ移動すればするでついて行って、でくのぼーのように突立って見ている、このようにして、庄野は、お盆にやって来るご先祖の如く気配づく、しかも、気配を消す。追い詰められた忍びの者が単に気配を消すようにではなく、梶井基次郎の「交尾」の或る片隅が光り出していたように、河鹿を見ようとすれば大胆に神速に河鹿の鳴いている瀬のきわまで進み、身をひそめ動かず、渓の石になってしかし目はらんらんとしている、という風にである。或いはまた、ラムの「エリア随筆」の或る片隅が光り出していたように、伽藍とした屋敷をうろつき、十二シイザアの半身像に幾時間も見いっていると、古い大理石の頭が息づきだし、ラム少年が大理石になってしまっている、という風にである。こうした幽霊性と窃視は、果たして追い詰められていて、覗き穴は盗まれている。この狭められた擬似奥行のもう一つの展開は、孫悟空の西への旅の如く果てしない視野の拡大である。三蔵一行が忽ち追い詰められてしまうのは、再びそこを通ることのない旅行者であるからであり、カメラ・アイであるからであり、すなわち、2040年は既に始まっていてしかも今を主張して、窃覗されているからである。

Tuesday, September 21, 2010

碧痕19 蔓植物(カノン)その岬

19 蔓植物(カノン)その岬
 夜ごとに吹くハーモニカ、歌う妻、それは、庄野を以て世を忍ぶ老夫婦が器官を延長したまぐわいである。日々の習慣や年中行事を、季節ごとに芽吹き蕾む花々を子々孫々の登場を、蔓植物のようにカノンの如くに、いや継ぎ継ぎに重複してつづる昼間の声に対位する闇の声としての、蔓植物やカノンの、その岬である。
 末広がる子々孫々とはいえ次々と消えていくのであり、その個々の足取りは、日当たりが悪くなって次々と消えていった「庭のつるばら」(庄野潤三)のなかに思いかけず生き残った株がひょろひょろ伸びている如くである。渥美半島伊良湖岬へ(柳田国男が、往古、海上に漂って流れ寄った人々のいたことを夢想したあの岬へ)、しかも台風が上陸しようかという岬へ、一族が庄野の喜寿の祝いに(祝うことが生きることの根拠であるかの如くに、懐疑なく)盛り上がって旅行することは、どこをどう彷徨って来たか、たしかなのは阿波徳島を経由して細々と移住を重ねて来た血が今なお自然の猛威・酷薄をしのいでささやかなノイズを立てていることである。しかも、一族の長の船底からは、何か不吉に逼るものを感じとった鼠が次々と音もなく別の船に移っていく気配がずうっと続いている。
 こうした闇の声としての、つるばら、台風、鼠が、妻の話す「青春・台風」(コンラッド)を通して岬になるのは、虚構じみている。つまり、ガーネットの「狐になった夫人」が鳥籠の小鳥を横目でじっと見ている、あの場面が妻の舌を通して届くように、庄野の妻は孫悟空の身外身のようなもので、庄野は、実は、物語っている。船底の石炭の粉塵が自然発火し、くすぶっているが未だ誰も気づかず、船の舳先から、鼠がぽとりぽとり、横づけした小船に落ちて移っていくのをふしぎに思ってながめている、そうした場面を妻が話すのは、庄野が放心しかけているのであり、蔓植物やカノンの、その岬なのである。つるばらも、移動する鼠の気配も、寄生体の如くに闇を孕んで、感応して光り出している。

Wednesday, September 15, 2010

碧痕18 放心、放心の回収、嘴

18 放心、放心の回収、嘴
 放心とは、他の誰かを通して呼吸する感染のはてに「私」というものがばらばらになる、その極である。物語の終わりに放心を回収することは、散らばった破片の和合ではなく、その断片が「私」というものを代表することでもなく、物語の大気(他の誰かを通して呼吸する感染)を脱するのである。
 「愛撫」(庄野潤三)を報告する「私」は、生贄であることが他の誰かの身体に顕れたためにそのことが度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めて来ている予期の)状態というよりも、生贄であることの別の相貌としての誘惑体(能所の区別のない誘惑体)が分割されて他の誰かの身体に誘惑(能)として顕れたためにそのことが度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めて来ている予期の)状態であるような被誘惑が「私」の身体に応答して顕れる、そのようにして分割・感染して保存され、そのようにして「私」がばらばらになるような遍在する窃視の質料化である。この「私」の報告が、言い外すことを以て隠れているものを炙り出す、というふうであるのも、身体に顕れた被誘惑が誘惑(能)と区別がつかないからである。修学旅行の夜の宿屋でクラスエスと二人だけ目が醒めていて抱き寄せられ(誰も知らない草むらで交尾する蛇のように)息をひそめてくっついていたことも、ヴァイオリン教師が「私」の指を撫でることから次第に増長して体の別の部位に触ろうとすることも、オネーギンの如きものを書き上げると宣言はするものの熱のない夫がクラスエスやヴァイオリン教師とのひとには見られたくない場面のことになると俄然つついたり引っ繰り返したりなぶるように(狐を叩き出そうと折檻するように)知ろうとする尋問の情熱も、誘惑体の分割・感染である。スリルは、「私」が何もかも知っているものに導かれて何も知らないかのように誘惑されることである。「私」は焦らすが、ばらばらにもなる。熱に浮かされるのである。それは、少女の頃にシャーウッドの森を疾駆するロビンフッドや海賊フックのもとへ空飛ぶピーターパンが誘惑の相貌で肉薄した熱病のつづきなのである。少女の憧憬、被誘惑のときめきは、誘惑(能)の予期と練習だったのである。
 感染の熱がひいて、「私」がつまらない妻になるとすれば、それは、何事もなかったかのようにまた一日が始まることであり、それが、放心の回収である。
 庄野潤三的なものの大気は、実は見かけほど日常的でも瑣末でもなく、実は劇的で、それどころか、帰還できないほど一般化の追いつかない変化の気配なのかもしれない。
 「西遊記」の場合、三蔵法師の通りかかるのを待ち侘びている妖怪変化は、孫悟空、猪八戒、沙悟浄だけでなく、流された貴種であること(江流)が脅かす相貌で迫り、「愛撫」の場合、誘惑の相貌で迫るのであるが、庄野的なものの、その放心の回収に於いては、熱病の潜伏がはてしもなくつづく。
この擬態の細部は、ありふれていて実は凝りに凝っている。今にも噴き出しそうなのをこらえるのが苦しいほどの端末振りなのだが、庄野は黙っている。いつのまにか放心の回収が取り消されていて唖然としているのであり、口に手をやると嘴になってしまっているというふうなのである。つまり、まぼろしじみた日常を壜に採取してガラスを通していつくしむかに見えて、その標本は、日常振りを観測し、均し、保存し、この世のものにしようとして400 年が経過してしまう。日常にかかる惰性、重力は日常の、その端末性が打ち消されて潜伏する、その潜伏の効果であるが、その端末性に被曝した日常振りは、惰性、重力が解けた跡形もない気配なのである。日常がしかもまぼろしじみているのは、この跡形もない気配の転移に過ぎない。ヒルトンホテル王朝の間で催された夕食会は結婚50年25年15年10年の夫婦がいる一族が勢揃いしたものだが、その記念写真の面々はどれも丸顔ですぐ一族と分かる。おかしいとも薄気味悪いとも報告されていないが、子々孫々というものが端末性に被曝しているのであり、子孫というものは、妖怪変化や誘惑がそうであるように、待ち伏せている。いや継ぎ継ぎにどこまで延びるのか、祖というものは子々孫々を一つの解として顕れてばらばらになる限りで、端末性が子々孫々に感染し、遍在する窃視の質料化であるが、このことこそは、子々孫々の出現が蓋然的ではなく、待ち伏せをくらうことなのである。子々孫々の出現を辿る庄野は、放心、放心の回収、その取り消し、この、祖と子孫の分業とそのエラー状態との回路に繰り返し連れ戻される。それは、子孫が祖を代表する届かなさであり、その届かなさを、空に立ち昇ってかすれる紫の煙の如く模写する連祷である。
 記念写真の中央を陣取る老夫婦の片割れ(「私」)は、Vサインを出して末広がる親族の間に、その、ずうっと続いている親族というものの断面に、写っているはずないのに写り込んでいる、或いは、現像したら写っていなかった、というように質料を羽織っている。つまり、他の面々を通して呼吸しているために端末性が度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めて来ている予期の)の状態である。一様に(堅固に、或いは愚直に)小判顔であるが千変万化の面々の間に出現する祖をどの子々孫々も代表するために、一族は勢揃い以上に膨れ上がる。この記念写真は、親族というものの運動を静止画像になるまでに極端に拡大しているだけでなく、端末性に被曝する、その生体反応としての荘厳を、更に発作的に模写して、一族の和声としてのVサインに世俗化する。しかし、この生体反応としてのVサイン(グロテスク)も易々とはこの世のものにならない。何か違う気配が自生する(かの如くである)ことの目じるしに留まるのである。
 こうした目じるしとして発声されるものに「南無八幡大菩薩」(あなたふと)がある。しかし、庄野が目じるしとして発声するものは、迂闊なほどにささやかな(しかし揺るぎない)端末である。南足柄の、とか、ニュートーキョーの「さがみご膳」・きびなごの空揚、とか、吉田牛乳の集金、氏家の梨、フランスパン「パリジャン」の耳、ビブレ三階、明石のいかなごの釘煮、等々、それらは選び抜かれていて、ささやかな善哉と幸を代表して、そのどれにも、ありがとう うれしい おいしい がつき添う。かなしい が混入しても、善哉と幸は、一族の不易の(頑固な)小判顔の如くである。その相貌は、屋根瓦にさえもぐりこむ藤の蔓のように、舌鼓、ネコの舌舐めずりのように獰猛であるはずなのに邪悪な天敵の気配に竦む兎のように身を差し出てもいて、そのために善哉と幸は、大きな魚の胃袋にそれよりも小さな魚が次々とおさまっているような気配なのである。
 連祷に於いて、善哉と幸の目じるしを列挙することは、ささやかな習慣をささやかな出来事にすることでもある。凡庸に均す日常は法則的到達・保存であって歴史的到達・保存ではない。庄野の連祷が小説(小さな要請)であるのは、日常の、命令として潜伏する習慣ではなく具体として顕れた習慣
を平均性で包んで保存することから、その具体が鎧う寿命を剥奪して負の到達・保存へ活くことである。一族の生活の端末を、その端末の歴史化と引き替えにするのである。これも、日常をまぼろしじみたものにする。端末は選び抜かれ、別の重力に包まれるが、跡形もないモニュメントなのである。 三回目の散歩、春と秋二回の墓参と中之島グランドホテル939 号室、スーパーOK、銀座伊東屋、大久保の「くろがね」、宝塚月組の公演、新年会、ワセダ穴八幡・柿生のだるま市、牛肉の脂身をつつきに来る四十雀、椋鳥よりもついえこ贔屓してしまうシベリアからのツグミ、ハーモニカの伴奏で妻が歌う文部省唱歌「冬の夜」や「早春賦」、こうした法則や星座のように配置された習慣は、輪郭を崩そうと覆いかぶさって来る闇を押しのけようとするが、その抵抗の方向を平均すると、果たして落下であり、ところが、この落下が柔光に包まれているのは、それが重力に基づくのではなく媒質としての重力の揮発だからである。溶暗に耐えているのだが、化かされているのでもあり、何だか分からない。それは、猛威を振るう文部省唱歌が陸軍礼式挙手の如く何ともいえない和解であるのに酷似している。
 善良(善哉と幸)、つまり、獰猛で酷薄であるが身を差し出してもいて打ち震えている、そうしたいとなみが駆り立てられている方には、むかしばなしの核が息づいている。桃太郎を孕んだ桃のような、生殖と捕食の夢のような複合・圧縮であり、捕食と被捕食の収斂である。花果山の堅果、漿果の豊饒を極度に圧縮した仙石が孫悟空を孕んでいたのも、話の発端にいきなり遡上があって、その収斂が分割され、器官を延長して話は展開するのであるが、逆に庄野的なものは、生殖と捕食のために器官を延長し、他の誰かを通しても器官を延長して、末広がりの子々孫々と津々浦々から届く海の幸山の幸とが夢のように圧縮された核が、接近に感応して光り出す、そうした接近の途上なのである。しかしどちらであれ、川上から流れて来ることは遡上なのであって、天竺への途上にあることも子孫が祖を孕む発端に連れ戻される遡上なのである。
 生殖と捕食と被捕食を夢のように圧縮した核、接近に感応して光り出す発端がそれともなく析出し、報告されている。
1 早春シベリアへ渡るツグミの、その、どこかにある、(心臓の鼓動が高まっている)集合場所
2 ガーネットの小説の或る場面: (狐になり果てた)妻に本を読んで聞かせていた夫が、ふと妻を見ると、妻は鳥籠の小鳥を横目でじっと見ている(大阪のラジオ放送局にいたころ、この場面を、私は(「私」は、夫になり、妻になりして)同僚に話して聞かせたことがある)
 こうした核に、黄袍がペロリと吐き出した鶏卵ほどの大きさの、精気を煉りに煉り、幾度となく雌雄をかけあわせて輝くばかりのひと粒の珍丹にふしぎな縁で悟空が出くわすように、待ち伏せをくらうのである。感応して光り出すのであり、響くのである。
3 「がちゃがちゃ」は、雌のとんぼを囮にして取る方法で(「夕べの雲」)、「ぎい」(雌雄二匹つながった状態のとんぼ)から雄の「らっぽ」を逃がして、雌の「べに」(翅の色の濃いものは「どろ」「ぎんどろ」といって)その胸を糸で結え、身体のまわりをゆっくり旋回させ、「らっぽ、ほーえ、らっぽ、ほーえ」というと、「らっぽ」が来て、二匹は空でからまって落ちる。「がちゃがちゃ」は交接の音の擬声だろう。「ぶり」はもうすこし高級なわざで、小さな石ころを紙に包んだものを二つ、手頃な長さの糸でつないで、空中に放り上げて、飛んでいるとんぼの体にからみつかせる。
 一体、多摩丘陵の、その一つの丘の上で、すでに2040年ははじまっているのに今を主張して被曝している庄野家の出発そのものが、渡りの集合場所のようなものであるが、生殖と捕食と被捕食の夢のような圧縮は、このように、記憶としても析出している。誰もが空でからまって落ち、からみつかれて落ちるのである。雷電に被曝する如く。

Sunday, September 12, 2010

碧痕17 仙体

17 仙体
 実体として顕れた天使、それは小さな要請(小説)である。
 混世魔の棲処に殴り込みをかけた孫悟空が、体毛を毟って息を吹きかけるや忽ち混世魔に群がりかる子猿ども(その子猿どもも体毛を毟って息を吹きかけるや忽ち・・・というように入れ子になるのではなく、悟空の器官の延長に過ぎないが、その子猿ども)を元に戻しても、元に戻らない子猿どもがいる。
 拉致されていた水簾洞の子猿である。
 刹那のノイズのような衝撃は、現像液の底から浮かび上がる写真の顔のように、悟空の気が陰に退いて浮かび上がった実体の(報告の)、その、隠れていたものが顕れる効果なのか、それとも、遊んでいた子供たちがいつの間にか一人増えている、といったザシキワラシのように、実体に面してそのことが疑わしい媒質の失調(真空化)に戦慄を以て模写発作が起こったのか、つまり、(擬態としての)実体の、その括弧憑きがとれる電撃なのか。発光がノイズのようであるのは跡形もない混同が起こっているのだろう。
 ところで、悟空の駆使する仙術というものは、極端な器官の延長であり、その暴れまくる拡大の極
に於いて被監視の状態になることこそは、つまり、増上慢の悟空を脅かす無我が悟空の行く先々で妖怪変化の気になることこそは、仙体である。妖怪変化として顕れた寄生体の感染経路が西遊の道筋であり、呑み込もうとして迫る妖気を次々と突破することは、大きな魚の胃袋がそれよりも小さな魚を次々と入れ子にしている般若心経に似ているが、茫々として届かぬ天竺を尋ねて、悟空の連祷は紫の煙がエジプトの空に立ち上る如くではなく、暴れるのである。
 悟空が遍在する窃視の質料化でもあることは、悟空がばらばらになる傍ら、精魅の手から手へ悟空が渡ることであり、天の河の底を鎮めたとされる「神珍(如意棒)」が悟空の接近に感応して光り出す(つまり、「物に主がある」)ように、精魅の気に応答して悟空も光り出す。光る悟空は、呑み込まれている。このようにして仙体は宙に浮く。