Tuesday, November 30, 2010

碧痕34 顰蹙、躊躇

34 顰蹙、躊躇
 愁訴は、取り消しに面して顰蹙を以てする模写発作である。こんなに近いのに遠く、こんなに賑やかなのに淋しく、ずうっと予期していたのに思いがけなく、こんなに大きく迫って来ているのに赤方偏移して遠ざかる。幽霊を見かけるほどの大視症なのに(覗き穴は盗まれないままに)幽霊は私を探しているようではなく、芳草に誘われ落花を逐う春の山も、ひねもす寄せ返すしき波も、私を探しているようではない。
 これは、法則的到達・保存と歴史的到達・保存とが干渉して留まりつつ通過する日常の憂いなのではない。日常というものは、平均性と提喩性の干渉のためにどこかすっきりしないのであり、うたかたのかつ結びかつ消える干渉が日常の如何わしさを醸成している。化の擬態はその媒質が隠喩性から平均性、提喩性に活いてあざむくのであり嘘をつくのであるが、それが直しさや「私」というものを鎧うことであるために、真性、誠実、ひいては方正、慎み、礼儀といった正当性に覆われた日常の、その如何わしさに面して、顰蹙を以てする生活反応としての憂い、それとは異なるのである。
 それは、取り消しに面しての模写発作であることに変わりはないが、何をしようか、というような春愁は、具体の極の、そのピンぼけに面して躊躇を以て模写発作が起こっているのである。
 具体の極である運命は、諸々の取り消しを孕んでいる。従って、運命に面しては決断的ではなく、身振り発作は顰蹙、躊躇である。

Wednesday, November 24, 2010

碧痕33 愁訴の如く

33 愁訴の如く
 範疇や種、「私」としての霊、或いは、抽象としての霊は、すなわち、平均性或いは提喩性を媒質として擬態を鎧った霊は擬態としての寿命を解くが、隠喩性を媒質として出現すると同時に潜伏し、命令すると同時に服従する霊、またその活用としての擬態の霊は滅びようがない。
 レーテの河を渡ってunlearn が起こる、つまり、抽象としての霊が具体となって映し出され、範疇や種、「私」としての霊が(忘却を伴って)生まれ変わったかの如くに覚醒することがあるとして、しかしそれは、擬態の霊が不滅で、しかも死体にならずして擬態が解けることがあるために起こる混乱である。実は媒体であることが覚醒しているのに、その覚醒が擬態としての「私」に転移するのである。
 既視感が一般的語彙に解消する場合、それは、雰囲気が類似している、といった程度の(具体の水準に於いての)抽象の突き合わせに過ぎなく、二重の通過が露頭するのではないが、つまり、寸分違わずに、といった打ち消されたずれが抜け落ちてしまうのであるが、この、思いがけないずれ(霊が具体となって映し出される(化の)不正)と、具体の水準に於いて比較される雰囲気の類似と区別されないのである。
 抽象としての雰囲気が具体となって解明され、あゝあれは「アンダンテ・カンタービレ」だったのか、ともの狂わしく初めて知ったとして、それは、擬態としての追想であることの、その覚醒としての贋の追想を打ち消しているが、しかしその追想がもの狂わしいのはどうしたことか。今この弦楽四重奏を耳にしていることは贋の追想ではない。しかし、あの(同じ(だが別の))弦楽四重奏を耳にしたことがあるのを今初めて思い出しているのに、他の誰かが思い出しているかのように、それが幽霊船の気配に被曝しているとすれば、もの狂わしい混乱は避けられないだろう。「アンダンテ・カンタービレ」に面して、その擬態の気配は消されているが、今この追想に面して、その擬態の気配(贋の追想)は覚醒して、、発作としてのもの狂わしさが「アンダンテ・カンタービレ」に転移するのである。この弦楽四重奏をいつか耳にすることがあるような気がしていたのではなく、この弦楽四重奏を耳にしたことをいつか追想するような気がしていたのであり、ずうっと予期していたのに忽然と思いがけなく、覗き穴が失効して、その、迂闊なほどに無防備な被曝が(この世ならぬものの忽然とした出現が)「アンダンテ・カンタービレ」を愁訴の如くに飾ってしまうのである。

Sunday, November 21, 2010

碧痕32 互角の度忘れ状態

32 互角の度忘れ状態
 「太陽は空にカッカと燃え、木陰は地を覆うて、蝉の声のみ耳にかしましく、あたりはひっそりして人声一つしない。ちょうど薔薇の棚のところまできたとき、ふとだれかすすり泣きをしている声がした。たしかに棚の向こうにだれかいる。時は五月のことで、薔薇は花も葉もまっ盛りであった。」(「紅楼夢」第三十回)宝玉が塀の隙間から覗くと、ひとりの女の子が花の下にしゃがんで、地面を釵でつついて泣いている。黛玉に倣って地を掘って花を埋めているのかと思ったが、そうではなく、地面に字を書いているのだ、しかも縦棒、横棒、点、鈎と順に数えていくと十七画、どうやら薔の字らしく、花に興じて一句二句うかび、推敲でもしているのかと思ったが、そうではなく、次の字もその次の字も薔の字ばかり書いている。女の子は芝居を稽古している十二人のひとりのようだったが、たちやく(生)、おんながた(旦)、わる(浄)、どうけ(丑)のうちのどの役をしているかまでは見分けられなかった。その眉は春の山のように蹙み、秋の水のように顰め、なよなよと黛玉にそっくりで、宝玉は、その場に釘づけになったように、呆然とみとれていた。
 井戸に落ちても、人に投胎しても持ち主に変わりなく、持ち主が近づく気配に光り出す。宝玉を責めるのは、こうした珠玉が分身していることであるが、黛玉を責めるのは、春の山に愁が属するのではなく、春の山に面して生活反応として、幽霊を私は見つけたのにその幽霊は私を探しているようではない、といった愁訴である。人に投胎したはずなのに植物のままに留まっているような、かといって人のなりに下生してしまっている、その、届かなさ、もどかしさ、痞え、焦燥と猜疑、肉づかない顰め顔の黛玉は、この世に面して、何をしに来たか思い出せない。思いがけなくないてばかりいる、その、歔りなく現実こそは、喉元まで上り詰めて来ている命令の解なのに、もう一つの解があるかのようなのである。宝玉が珠玉の分身に茫然とする如く。

Sunday, November 14, 2010

碧痕31 二重の通過

31 二重の通過
 既視感を映像にするには、覗く観客が障害になる。勢い、科白を以て指示することになる。「青幻記」で少年と母が島に上陸するシーンでも、「Stranger than Paradise」で雪の積ったクリーブランドの引き込み線を横切るシーンでも、科白で補って甘んずる。
 植物学者であるETが、地球の森の植物相に無我夢中になって誘われるように彷徨ううちに崖の端にでて、そこから崖下に町の灯が(ETからすれば野生の灯が)隠沼のように広がっているのを見下ろすシーンは、既視感にparaphraseされてもしかるべき裂目である。
 この裂目では、覗き穴は盗まれている。「誰かがいる」という薄気味悪く迫る発作的な抽象の気配が、「見られている」(受動、尊敬、自発、可能の収斂)に屈折し、更に「既視感」にparaphrase(散文化)されるのである。遠いというだけで見えなかったものが見えるようになったのに追い越してしまっていて、二重に通過するのである。

Saturday, November 06, 2010

碧痕30 紅楼夢

30 紅楼夢
 「野菊の墓」(伊藤左千夫)は、「紅楼夢」的な霊異、野菊の姿をした仙女に水をやって慈しんでいた対いの片割れが人の世にあこがれて下生したのを追って仙女も人に投胎し、涙を以て慈しみに報いる、というふうに引き裂かれる。タミコは追って下生したはずなのにマサオの投胎に二年も先立ってしまっていたのである。この齟齬は些細なくるいではなく、引き裂かれることに向かって決定的な口実になる。一つ年上の女房なら金の草鞋を履いて、鉦太鼓を鳴らしてでも探せというのに、二つでは加速して遠ざかる斥力が及ぶのである。身震いするほど好きな野菊と竜胆をズーム・アップして来た覗き穴がいつの間にか盗まれていて、遠いというだけで見えなかったものが見えるようになったのに、実は追い越してしまっていて、俄に逼る碧い淵から手を伸ばして縋ろうとすると見る間に身体が沈むように縮小して届かなくなるのである。
 しかしこれは、漠としてくすぶる衝動(紅楼夢)の通り、首都そのものに膨れ上がったように巨大なホテルの、或る部屋をずっと探し回っているが、部屋の番号が分かっているのではなく、しかしその番号を見れば探している番号がああこれだと(思いがけなく)はっきり分かる、そうした予期に貫ぬかれている。

Wednesday, November 03, 2010

碧痕29 互角の責め

29 互角の責め
 「珠子の場合、その思い出し方は、奇妙なものだった。というのは、彼女の記憶の中には、嘗て自分の生命を救ってくれた青年の顔形が、はじめから全然存在しないのであった。いや、存在はしているのかもしれないが、濃い煙のように、一つの感じとしてくすぶっているだけで、まだ目や鼻や口を備えた顔として存在したことは一ぺんもなかった。それでも珠子は、もし自分がその青年に出会えば、必ず見分けができるという自信があった」(「人生」石坂洋次郎)こうしたunlearn の運動は、個体発生的であれ系統発生的であれ、模写としての抽象が擬態を解くこと、化である。初めて囀ろうとするウグイスは、その、喉元まで上り詰めて来ている衝動が「濃い煙のように、一つの感じとしてくすぶって」いても、具体となって化けて出ない限り、ああこれだったのだ、というように解明されない。
 魚雷に沈められた船から海に逃れた珠子は、もう一人も乗せられないボートにしがみついていた後で、その青年と入れ替わることになる。青年に身代わりであることが顕れたために珠子はそのことが(身代わりであることが)度忘れ状態にある。ところが、実は珠子に覗き穴を盗まれていた青年が珠子こそは身代わりだったのだと告白して、身代わりであることの責めを内向と外向に分割する。この互角の責めが、程度として内向に傾けば犯人が逼るスリラーに、外向に傾けば犯人を追い詰める犯人探しの話に分岐する。「人生」では、嫉妬が、珠子の婚約者にして青年の(青年が騙そうとしていた(と青年は告白する))取引相手でもある渡辺に感染する程度に、分岐しかけている。珠子と渡辺の間柄は、婚姻色が顕れているというよりも、なごり惜しさと瞋恚の分業であり、珠子が青年に追いつくためのルーペに過ぎない。
 青年の二つの告白はうっかり盗まれていた覗き穴を取り返そうとしてはにかむか、照れるかして、どちらともつかない。この告白は、実はルーペで拡大された秘密なのである。ルーペが拡大して、浮かび上がったのは、一滴の露である。
 人生というものが、動もすれば參と商の如し、今夕また何のゆうべ、同じ燈燭の火を共にす、明日山岳を隔てなば世事両つながら茫々、というように寂漠を以て語り出されようと、道成寺の如く、無量のなごり惜しさと瞋恚を以て語り出されようと、覗き穴がしかも盗まれていて、互角の追跡・遁走、互角の誘惑、互角の責めが息づいている。