Monday, December 27, 2010

碧痕40 痞え、黒い重力の気配

40 痞え、黒い重力の気配
 夢は見るようだが、気配づくだけで残らない夢が多い。これは、夢から帰還した私とは別に生還しない私が大勢いるということなのだろうか。これは、証明できない全体へ向かって拡張する「私」が痩せ細るということにはならない。全体とは、基数ではなく序数に属するからである。
 或いは、数限りない実数の解としての私とは別に虚数の解としての私がいるということだろうか。
或いはまた、夢を話す私こそは生還したかの如く話すのであり、実数の解としての私を吸い込む黒い重力としての夢は気配づくだけではないのか。
 日常の光景が法則的・歴史的に制御される限り、それは種族の(正当な)光景であるように、夢から生還したと言い張る限りでは、それは私の夢というより、種族の夢にならないか。こうした曖昧性こそは日常を支えるのであり、私の夢も日常の光景から寸分も逸脱しない。
 夢からの帰還ということは、離脱する魂と抜殻の身体に分割されることからの回復、というようにparaphraseされて来た。銀河鉄道からジョバンニは生還したかの如くであるが、ジョバンニに顔がなかなか戻らないのは、私が戻って来るかの如くして(擬態の気配が消えないままに)銀河鉄道も種族の光景になっていくかの如くして、脅かされているのである。溺死体が上がったという声が漂って来るのを漠として耳にするとき、この覚醒は、ジョバンニに迂闊にも400 年が経過しているということではなく、反夢としての抜殻の身体が(死体となって)他の誰かに顕れるということであり、そのために反夢としての身体であることが度忘れの状態にあるのである。
 この奇妙な覚醒は、宝玉(「紅楼夢」)を襲う痰疾、黛玉が(死体の如く)原籍地へ戻ってしまうことを耳にして俄然呆けてしまう(宝玉が瓜二つのもう一人の宝玉を尋ねていくと(これは夢なのだが)そのもう一人の宝玉は宝玉を尋ねていったが抜殻であったと誰かに話しているのを宝玉が盗み聞きする、というように痞えてしまう)というように、秘密を吐き出した反夢としての身体が(もう一人の宝玉を器官の延長として)喉元まで上り詰めて来ていることである。
 日常性は、こうした夢と反夢からの生還の不能に抗う。
 二百十日の夜明け前から降り募る雨、吹き募る風の、その暗騒音に、何か虫が知らせる、あの、胸騒ぎ、子供たちは「風の又三郎」と呼ばれる極端な(写真にはうつらない)秘密を持ったのであり、子供たちに迂闊にも400 年が経過してしまう。しかし、子供たちの失踪は、ハンメルンのように報告されているのではなく、「イツノ間ニカモウ一人増エテイル」というように、狙撃と拉致が(黒い重力の気配を消せないままに)報告されているのである。

Friday, December 24, 2010

碧痕39 写真撮影の失効

39 写真撮影の失効
 浦島の如く、帰還しない、したとしてもしたことにならないのは、夢の場合は極端に私的で一般化が追いつかないからであるのに対して、死体の場合は私的なものを極端に欠いた鏡像の極だからである。死体が何か秘密を保存しているとしたら、しかしそれは、既に均された生体の延長である。
 天使を見たことはあるか、という経験の問は失効する。つまり、写真にはうつらない。法則的にも歴史的にも管理されない。その大気は、平均性でも提喩性でもなく、寿命なく、 
 均された法則(平均値)としての私は(擬態としての)寿命を鎧い、帰還しない私は(擬態としての)寿命を解いている。信長の謡い舞う敦盛は程度としての寿命を鎧う武者震いであるが、というのもそれは程度としての夢・幻であるからだが、帰還しない私が幻であるのは(擬態としての)寿命を解いているからであり、そのために浦島のように、迂闊にも400年が過ぎ去ってしまっているかのようにparaphrase(散文化)されもするのである。
 タイム・スリップは、既視感のparaphraseである。二重の通過が双方を貫く。擬態と妥当要求の重心は、タイム・スリップに於いては直しさと真性に傾き、既視感に於いては「私」と誠実に傾くが、擬態の気配は消せない。直しさ―真性と「私」―誠実とは区別がつかなくなる。
 暗殺された大久保利通の死体の創傷は五十数箇所、頭蓋は割れて脳味噌が震えている、それを実見した前島密は、その数日前に大久保がもらした夢の話を伝えている。断崖で西郷と格闘、抱き合って転落し、自らの死体を見下ろす、頭が裂けて脳味噌が微動している、というのである。
 脳味噌の微動は正夢にしたい前島密の脚色くさいのであるが、この暗合、小説は前島密が夢から生還したということ(暗殺を予期した正夢として制御すること)なのである。一方、大久保が自らの死体を見下ろすのは、反夢としての死体に秘密をもることを以て死体を解き、死体から生還したかのように振る舞うことを以て夢から生還するかのように足掻くのである。つまり、夢を話すこと(夢から生還したかのように足掻くこと)が、自らの死体を見下ろすことに応化していて、西郷との崖上に追
い詰められた私闘と転落に応化(出現すると同時に潜伏)していることが何であれ、この応化を写真撮影したように自らの死体を見下ろすのである。
 器官の延長上で国事に化けた暗殺死体は秘密を吐き出していて、反夢であるが、吐き出された秘密も応化して、二重に写真撮影が失効する。

Tuesday, December 21, 2010

碧痕38 反「一粒の麦もし地に落ちて死なば・・・」

38 反「一粒の麦もし地に落ちて死なば・・・」
受信と発信の分業の、その擬態の気配が打ち消されている限りで、「一粒の麦もし地に落ちて死なば・・・」の如く個別化されて種(一般)は保存される。というより、それは拡張する。というのも、個―種と部分―全体が混同されているからである。個―種と具体―形式の混同が特殊―普遍であるが、個―種と部分―全体の混同が要素―集合で、「漱石」と呼ばれる集合は証明できない全体に向かって拡張し続ける。この拡張は、出現すると同時に逃れ去るのであり、「一粒の麦もし地に落ちて死なば・・・」は、要素―集合の枠組によって制圧しようとする実験が有効な時代の、その経済が資本主義になることを予示している。
 一方「麦死なず」(石坂洋次郎)は、そこで展開する男と女のすったもんだが階級的覚醒と闘争と文学といったものを婚姻色とする擬態の記録であるが、その婚姻色の精で反「一粒の麦もし地に落ちて死なば・・・」というのではなく、被再読を、従って資本となることを拒むポーズを以て「一粒の麦もし地に落ちて死なば・・・」の実験に留まる擬態の気配なのである。そうした取り消しの傾向は、この記録の隅々にも普く、顰蹙と顔を赤らめる事態になる。思わず笑ってしまうおかしさの源泉でもある。

Wednesday, December 15, 2010

碧痕37 花咲く乙女たち

37 花咲く乙女たち
 「紅楼夢」の、あの、列挙せずにはいられない花咲く乙女たち、李がん、迎春、探春、惜春、宝釵、黛玉、湘雲、李紋、李綺、宝琴、岫烟、それに鴛鴦、襲人、平児、琥珀、素雲、紫鵑、彩霞、(憤死した金釧児の妹)玉釧児、麝月、翠墨、翠縷、それから(幼くしてかどわかされた)香菱も含めて、差し当たって、宝玉を魅するのは、虚の気配を消した「花咲く乙女たち」の解の平均値ではなく、和でもなく、「花咲く乙女たち」の諸解の間に挑むようにズーム・アップし続ける拡大の果てに、虚像に飛躍して顕れる「花咲く乙女たち」である。解を取り消す「種」が花咲く乙女たちにかかって、その取り消しに面して宝玉こそは顰蹙、愁訴するはずなのであるが、その顰蹙、愁訴が黛玉に顕れているために、その不随意の感染保存を通して宝玉は空けた度忘れ状態でいられるのである。

Friday, December 10, 2010

碧痕36 憤るようにズーム・アップし続ける

36 憤るようにズーム・アップし続ける  太宰は、弘前城で振り返ったとき眼下にうずくまっている町並みを隠沼を以て抽象しているが、石坂洋次郎は、同じ町並みを次の如く報告している。  「やなぎ座から南へ上がった道路は、そのまま伸びていって二つの大きな部落に通じていたので、朝や夕方のひとときには、百姓や馬や荷車の往来で賑わい、所々の煮売茶屋からコップ酒に酔った百姓達の唄声が聞えることもあったが、町の中心地へ出るにはやなぎ座まで下らないうちに右へ折れた道路を通るので、その賑わいは途中でかき消されてしまっていた。  北へ下がると、五六町ばかりで、濠が深く松が古いお城址の公園につき当る。東側には空地の多い屋敷町を控え、西側は家々のすぐ裏が削ったような崖になって居り、崖下からひろい水田が展けて、その中に下町の全景が手に取るように浮び上っていた」  やなぎ座からお城址までの界隈は、一年中澱んだ泥沼のようにひっそりした頽廃の空気の中に沈んでいて、此処を通って何処へ行くといった道筋ではなく、稀に、寺詣りやお葬いに出かけた人々が、気紛れにまわり道をするぐらいのものであるが、町には店屋が多く、魚屋、米屋、皮屋、焼芋屋、仕立屋、昆布屋、駄菓子屋等に混じって、昼間は明りとりのために蔀戸を半分開けて置くが品物は一つも並べてない店屋も二三軒、そんな家の主人は、夜になると遊郭に働きに出たり、夜鷹そばを商ったりしている。こうした店屋の間に挟まって、ところどころ、格子戸を打ったしもた家や、板塀をめぐらした小綺麗な平家などもあって、そんな家にはお妾や芸妓が住んでいるか、さもなければ娘に水商売をさせてその仕送りで暮している老人夫婦が住んでいた。そうした家々が、四五町の間、襤褸布を継ぎ合せたようにヒシヒシ立ち並んでいる町の、その一番南寄りの角がやなぎ座で、もとは藩公のお声がかりで、町民に上方風の礼儀作法をしつける目的で建てられたものだというが、正面と北側に頑丈な黒塀板をめぐらし、その上から窓の少ない陰気な建物の一部を覗かせ、まるで巨大な蝙蝠が羽をひろげたように見えた」  隠沼が一隅に忽然と現れるのは宙に浮いた目を通して大気が寂漠に変わってしまうのであるが、やなぎ座の蝙蝠の目は隠沼をとらえる猛禽類の目というよりは、そのズーム・アップし続ける拡大の果てに、覗き穴が盗まれるのではなく、虚像に襲われてしまう。  旧正月にやなぎ座に芝居がかかる時は、屋根の天辺の櫓から触れ太鼓が響く。吹雪の音にまじってトコトン、トコトン・・・「風が強くなり、巻き上げられた粉雪が雨戸や硝子戸にサワサワと吹き当り、電信柱がコーン、コーンと唸り出すようになると、太鼓の音は遠くに浚われたようにかすかになり、もうこれで打ち上げたのかと思っていると、少し鎮まりかけた吹雪の虚を衝いて、トコトコトコトコ・・・という急調子の撥音が挑むように膨れ上って来る。そして何時の間にかそれがまたトコトン、トコトンというのんびりした打ち方に変っている」  それは、狸囃じみているが、この狸太鼓に引き寄せられて子供たちは忽然と、雷に打たれたように居合わせ、かつ引き裂かれるだけではない。挑むように、憤るようにズーム・アップし続けるものは、やなぎ座の奥地に、拡大の果てに、くろうと綾葉の金歯、立女形の東京言葉、目も鼻も崩れたもうじき死ぬ女の顔、爺様の目腐れ顔、女のくせに陰茎のある花子、うっすら火傷の痕が広がったトミの頬にできる靨、といった「不正と背徳」が膨れ上がってうずくまる。  それは解なのか。解であるにしても虚数なのか。虚数であるにしても自生する如く虚の気配を消して、このズーム・アップは鬱勃としている。肘から下のないきりょうよしの淫売婦げん(「風俗」石坂)に続く負の系列であれどんな系列であれ虚の気配が消されていても解のどれ一つとして自律してはいないし自由でもない、そのことが覚醒しないように他の誰かの身体に欠如・過剰・両属性(不正)が顕れ、虚の気配が消されて保存されるのであるが、そのような度忘れ状態に於いて、打ち消された覚醒は未知の土地のように膨れ上がって脅かしかけるのである。  イサクを連れたアブラハムの沈黙の旅の、その、挑むように、憤るようにズーム・アップし続ける拡大の果てに、覗き穴が盗まれるのではなく、「生贄であること」がイサクに顕れたために度忘れ状態になって、打ち消された覚醒が膨れ上がって襲いかかる、そうした虚像のもう一つの感染症状として、「不正と背徳」は顕れている。

Friday, December 03, 2010

碧痕35 あさましがり、顔をあからめる

35 あさましがり、顔をあからめる
 互角の追跡・遁走は、引き裂かれていることを模写するのであるが、何か逆転がつきまとう。道成寺の場合、その遁走は実は誘惑であるし、「走れメロス」の場合、駆り立てるものから実は遁走している。結末でメロスが赤面するのは、信義(の責め)に追い立てられながらも遁走をこころみていたはずなのに信義をあさましくも体現してしまう恥ずかしさに、また、人の良い誤解から打ち消し難くもはや手に負えない喝采が湧然と起こっていることに照れて、メロスではなく太宰の顔面の紅潮がメロスに転移したのである。奮闘の末に裸同然の姿をうら若い娘に指摘されて顔を赤らめるのではなく、責め苦の化けの皮を剥がれるような気がして、その二重性を模写する血管の膨張が、互角の追跡・遁走となって、魘されるように散文化される。太宰は顔をあからめたいのである。
 心中の成功を太宰はあさましがるだろうし、桜桃忌に玉川上水路に巡礼する人々が面はゆいだろう。顔はあからめたいが、移したくなるのであり、しかしメロスはいない。
 蛇体を隠した「ヴィヨンの妻」の待ち侘びることとして責め伸びて来る追跡を躱すようにしてする誘惑は、追跡の道筋がいつの間にか器官の延長としての他の誰かにずれるように誘導することである。蛇体となって駆り立てる媒体性(としての責め苦)が妻に降りかかる姦通や強姦といった操守の頓挫となって顕れるように遁走・誘惑するのである。蛇体は、追い詰めてみたら他の誰かに抱き竦められてしまっていて、あさましがる。人知れず、太宰とヴィヨンの間に感染がおこり、あさましがり、顔をあからめる。