碧痕41 「赤い高粱」
41 「赤い高粱」
生贄であることが疚しさとなって潜伏しても、アダムとエバには神経衰弱となって祟り返し、カインには追跡(被監視)の気配となって迫り、アブラハムには履歴改竄となって祟る。それぞれにかかる呪詛は、「私」というものへの(つまりは、寿命と死滅への)誘惑と兄弟殺しと子殺しである。塵であることを脱することへの誘惑、しかしそれは、死滅を以て「自由、孤独、思考」が均されてしまうことに面してしまい、兄弟殺しや子殺しは、何よりも身近で何よりも疎々しく(盲目でもあるかのようにヤーウェに、アブラハムよ汝何処にや居る、と呼び出しを喰うような)何よりも秘密にして何よりも隠れなく、打ち消され疚しさとなって潜伏しているもの、それが何なのか分からないままに、その薄気味悪く迫るものが身近なものに入れ替わる混乱振りなのである。
我子を写真に展翅することには、イサクを燔祭に供えようとして旅するアブラハムの話が貫いている。
部分が全体を代表することは実が種を孕むようなことであるが、具体の極としてのイサクは個別性も普遍性も、部分も全体も疑い、実が種を孕むとも種が実にかかるともつかない、漠として拡張すると同時に一気に収縮するピンぼけで、法則的到達・保存でも歴史的到達・保存でもなく、真偽の範疇も範疇そのものも疑う、つまり、写真にうつらない。このピンぼけは、被写体の写りがそうだというのではなく、写真撮影の失効、到達・保存の衝動がその擬態を解かれるのである。
アブラハムが息子イサクを(写真に)展翅するのに、その旅の長さだけの露出時間がかかる。それは生贄であることを免れるのではなく、ピンぼけ(生贄であること)を隠す擬態の気配が消えるのである。擬態の気配を消して我子を写真に展翅し、生贄であることは写真にうつらない。物語はしばしば釘づけの磔刑の十字のような静止画像で終わる。しかし、その、時間の極端な拡大(スロー・モーション)は、拡張すると同時に収縮するピンぼけ(この世ならぬものの忽然とした出現)に向かって物語が駆り立てられていたことの目じるしでしかない。ピンぼけは分割されたままなのである。それは、鮮明な静止画像と引き替えに眠り込んでいる。
生贄であることがイサクに顕れたためにそのことが度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めて来ている)状態にあるアブラハムの、その沈黙の旅の如く、「私」は父や祖父や祖母や羅漢大爺を展翅しようと遡上して物語る。玉蜀黍のようにヒトに取り憑いた「赤い高粱」(莫言)の、その繁殖が果てしもなく広がる墨水河流域が年々歳々変わることなく要求した生贄の、その解の一つとして羅漢大爺も祖母も祖父も父も拡大され、騾馬を繋ぐ杭に架けられ、耳を削がれ、陰茎を切り取られ、生きたまま皮を剥がれる、といった視線を釘づけにする静止画像を、その旅の長さだけの露出と時間の極端な拡大を以て展翅しても、何かいわれのない責めが疼く。それは、「私」というものの、その擬態が解けかかっているからなのだが、何だかわからないままに「私」は、その責め苦を、今こうして生きる子孫の退化の精にしてしまう。
生贄であることが疚しさとなって潜伏しても、アダムとエバには神経衰弱となって祟り返し、カインには追跡(被監視)の気配となって迫り、アブラハムには履歴改竄となって祟る。それぞれにかかる呪詛は、「私」というものへの(つまりは、寿命と死滅への)誘惑と兄弟殺しと子殺しである。塵であることを脱することへの誘惑、しかしそれは、死滅を以て「自由、孤独、思考」が均されてしまうことに面してしまい、兄弟殺しや子殺しは、何よりも身近で何よりも疎々しく(盲目でもあるかのようにヤーウェに、アブラハムよ汝何処にや居る、と呼び出しを喰うような)何よりも秘密にして何よりも隠れなく、打ち消され疚しさとなって潜伏しているもの、それが何なのか分からないままに、その薄気味悪く迫るものが身近なものに入れ替わる混乱振りなのである。
我子を写真に展翅することには、イサクを燔祭に供えようとして旅するアブラハムの話が貫いている。
部分が全体を代表することは実が種を孕むようなことであるが、具体の極としてのイサクは個別性も普遍性も、部分も全体も疑い、実が種を孕むとも種が実にかかるともつかない、漠として拡張すると同時に一気に収縮するピンぼけで、法則的到達・保存でも歴史的到達・保存でもなく、真偽の範疇も範疇そのものも疑う、つまり、写真にうつらない。このピンぼけは、被写体の写りがそうだというのではなく、写真撮影の失効、到達・保存の衝動がその擬態を解かれるのである。
アブラハムが息子イサクを(写真に)展翅するのに、その旅の長さだけの露出時間がかかる。それは生贄であることを免れるのではなく、ピンぼけ(生贄であること)を隠す擬態の気配が消えるのである。擬態の気配を消して我子を写真に展翅し、生贄であることは写真にうつらない。物語はしばしば釘づけの磔刑の十字のような静止画像で終わる。しかし、その、時間の極端な拡大(スロー・モーション)は、拡張すると同時に収縮するピンぼけ(この世ならぬものの忽然とした出現)に向かって物語が駆り立てられていたことの目じるしでしかない。ピンぼけは分割されたままなのである。それは、鮮明な静止画像と引き替えに眠り込んでいる。
生贄であることがイサクに顕れたためにそのことが度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めて来ている)状態にあるアブラハムの、その沈黙の旅の如く、「私」は父や祖父や祖母や羅漢大爺を展翅しようと遡上して物語る。玉蜀黍のようにヒトに取り憑いた「赤い高粱」(莫言)の、その繁殖が果てしもなく広がる墨水河流域が年々歳々変わることなく要求した生贄の、その解の一つとして羅漢大爺も祖母も祖父も父も拡大され、騾馬を繋ぐ杭に架けられ、耳を削がれ、陰茎を切り取られ、生きたまま皮を剥がれる、といった視線を釘づけにする静止画像を、その旅の長さだけの露出と時間の極端な拡大を以て展翅しても、何かいわれのない責めが疼く。それは、「私」というものの、その擬態が解けかかっているからなのだが、何だかわからないままに「私」は、その責め苦を、今こうして生きる子孫の退化の精にしてしまう。


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