Monday, February 21, 2011

碧痕50 玉音

50 玉音
 吉野山の桜や銀座の、そのキッチュが日本の津々浦々に出現するように、蓄音器が玉音放送じみた中心をなして1933年「東京音頭」は津々浦々に流行した。それは、前年発表の「丸の内音頭」の焼き直しに過ぎなかったが、「国体」の、すなわち「本源」と「分」の、そのキッチュとして丸の内は力不足だった。

 徳川夢声の敗戦日記が報告する8.15、それまで聞いたことのないその声は、声帯を通して、更には雑音の多いラヂオを通して届いた天来の妙音にして、その清らかさに細胞という細胞が悉く震え、そのありがたさは毛の先まで貫く。あさましがることは、コレガ天皇ノ声ナノカ という忽然とした思いがけなさであって、「耐エ難キヲ耐エ忍ビ難キヲ忍ビ」から久方の重波(しきなみ)が一気にふくれ上がって一気に収縮する虚構の痙攣(模写のエラー状態)に胸が決壊するのである。コレガ天皇ノ声ナノカ と、コレハ本当ニ天皇ノ声ダロウカ といった懐疑とは区別がつかない。コレガ東京ナノカ といった感激(拡張・収縮)も、コレハ本当ニ東京ダロウカ といった懐疑も、同じ裂目(痙攣)、エラー状態が宙に浮いているように、どちらも虚構の気配が消せないのである。しかも、この拡張・収縮(拡張と収縮の複合)は「本源」と「分」に分岐しないカーストの収斂(「本源・分」)と共振する。「耐エ難キヲ耐エ忍ビ難キヲ忍ビ」はカーストのフェロモンを放出したのではなく、忽光を放射し、清らかさ、ありがたさといった範疇を以てしては追いつけない裂目と放射に面して、戦慄と惚恍を以て発作的に模写されたのである。
 あさましがることに於いて、戦争は、終ワルコトガデキルノカ といったもう一つの解があった。それは、虚構の気配を消した「敗戦」の範疇では追いつかない。「敗戦」では模写できないエラー状態は、落涙を以てあっさり清算するどころか、人ハ死ヌノカ といったような覚醒(おどろき)である。それは、蒙昧なのではなく、虚構が秘密ではなくなること、法則的、歴史的到達・保存の、その擬態の気配が消せない痙攣である。戦時の生活の、その日常性に面して、その到達・保存が疑わしく、媒質としての(空気や、魚族にとっての水の如き)日常性から打ち上げられて、あさましがるのである。

 1945,8.15 津々浦々の玉音放送の光景には、写真にうつる狐憑き状態の等級と、写真にうつらない狐狸の気配、地獄から管を通された声とが(つまり、歴史的瞬間と、そのピンぼけとが混沌としている。
 それは、混在ではない。ピンぼけは神通(擬態の解除)であって、法則的到達・保存でも歴史的到達・保存でもないからである。

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