碧痕52 「電波」、露頭
52 「電波」、露頭
ヤーウェに呼び出しを食らっているのにアブラハムは、イサクに生贄であることが顕れたためにそのこと(しかも誰であるかの区別なく呼び出されていること)が度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めている)状態になる。同じようにして、「おれに電波が来る」深川の通り魔は、誰であるかの区別なく狙われることが他の誰かに顕れたためにそのことが度忘れの状態になるが、この通り魔は、他の誰かに「おれに電波が来る」を感染・保存するだけでなく、傍観者に度忘れ状態を感染・保存しもする。
この「電波」は、カーストのフェロモンの放出ではなく、極端な差別としてのカーストの取り消しであり、しかし深川の通り魔は事件としての昭和天皇のキッチュである限りで、白いブリーフとロング・ソックス、ハンカチを口腔に詰め込まれた、その珍妙な(どこか、後ろ手に吊るされた「囚われの姫」に通底する、エログロナンセンスな)いで立ちを以て誘拐されていたのである。
1995年宜野湾市海浜公園で、米海兵隊員による少女暴行事件に抗議した八万五千人に及ぶ県民集会、「あの巨大な意思表示、あれだけの規模とエネルギーの、統御された集会を実現する、民主主義の実力、「爆発」を憂う声を聞きながら、普天間が何も変わらぬ情況の長く続くなかで、「爆発」が決して起こらずに来たことこそ、沖縄県民の実力を示している」(大江健三郎)
つまり、一揆、打ち壊しのような「爆発」、履歴改竄の衝動が溢れ出さずに、生活の法則と平均化の保持のうちに八万五千人の抗議集会を整然と実現する粘り強い底力を、沖縄県民の「民主主義の実力」と呼んでいるのであるが、それは、米海兵隊員に「電波」が来たことを拒否し、少女に「電波」が来たために他の誰もが度忘れの状態になる限りで「電波」の圏外に留まることなのである。
この圏外とは、少女がそれまで呼吸していた媒質から打ち上げられて「電波」に被曝することになる、そうした媒質としての日常性、カーストのフェロモンが届く日常性である。しかし「巨大な意思表示」とは、そうした圏外に覗いている露頭、「電波」が届いた少女を供える殺到としての総身の毛も太る和声であり、砂川闘争の、あの「赤トンボ」や「ふるさと」の鳥肌立つ大合唱の発生、一般意志もカーストも追いつかない薄気味悪く迫る気配の露頭である。
ヤーウェに呼び出しを食らっているのにアブラハムは、イサクに生贄であることが顕れたためにそのこと(しかも誰であるかの区別なく呼び出されていること)が度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めている)状態になる。同じようにして、「おれに電波が来る」深川の通り魔は、誰であるかの区別なく狙われることが他の誰かに顕れたためにそのことが度忘れの状態になるが、この通り魔は、他の誰かに「おれに電波が来る」を感染・保存するだけでなく、傍観者に度忘れ状態を感染・保存しもする。
この「電波」は、カーストのフェロモンの放出ではなく、極端な差別としてのカーストの取り消しであり、しかし深川の通り魔は事件としての昭和天皇のキッチュである限りで、白いブリーフとロング・ソックス、ハンカチを口腔に詰め込まれた、その珍妙な(どこか、後ろ手に吊るされた「囚われの姫」に通底する、エログロナンセンスな)いで立ちを以て誘拐されていたのである。
1995年宜野湾市海浜公園で、米海兵隊員による少女暴行事件に抗議した八万五千人に及ぶ県民集会、「あの巨大な意思表示、あれだけの規模とエネルギーの、統御された集会を実現する、民主主義の実力、「爆発」を憂う声を聞きながら、普天間が何も変わらぬ情況の長く続くなかで、「爆発」が決して起こらずに来たことこそ、沖縄県民の実力を示している」(大江健三郎)
つまり、一揆、打ち壊しのような「爆発」、履歴改竄の衝動が溢れ出さずに、生活の法則と平均化の保持のうちに八万五千人の抗議集会を整然と実現する粘り強い底力を、沖縄県民の「民主主義の実力」と呼んでいるのであるが、それは、米海兵隊員に「電波」が来たことを拒否し、少女に「電波」が来たために他の誰もが度忘れの状態になる限りで「電波」の圏外に留まることなのである。
この圏外とは、少女がそれまで呼吸していた媒質から打ち上げられて「電波」に被曝することになる、そうした媒質としての日常性、カーストのフェロモンが届く日常性である。しかし「巨大な意思表示」とは、そうした圏外に覗いている露頭、「電波」が届いた少女を供える殺到としての総身の毛も太る和声であり、砂川闘争の、あの「赤トンボ」や「ふるさと」の鳥肌立つ大合唱の発生、一般意志もカーストも追いつかない薄気味悪く迫る気配の露頭である。


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