Sunday, May 08, 2011

碧痕68 盗まれた孤独

68 盗まれた孤独
 門を出れば我も行人秋の暮(蕪村)
 旅人と我が名呼ばれん初時雨(芭蕉)
 酷似しているが何か違う。
 この道や行く人もなき秋の暮(芭蕉)には、絞り込んだ我の位置の確定がある。寂漠ではなく、孤独をくっきり測定する覗き穴が確保されている。行く人の打ち消しは、我が行く人に解消しないことに転移している。同じようにして、初時雨の旅人も単なる客には解消されない。孤独が我を代表するように、旅人が我を代表する。ところが、門を出た蕪村は行く人に解消してしまう如くである。つまり、覗き穴は盗まれ、もの思いは被盗聴状態にある。しかし、このようなことは、我が覗き穴を極めてこそ起こる。極端に拡大した我が一気に収縮して孤独が脅かされることこそが、寂漠である。
 同じようにして、
 秋深し隣は何をする人ぞ(芭蕉)の大気は、「人生相見ず、ややもすれば參と商の如し」の如く、寂漠であるかどうかは疑わしい。むしろ、孤独と孤独の親和のようなものであり、木枯や何に世渡る家五軒(蕪村)のように、覗き穴を限界まで一気に絞り込んで、俄然能所を取り消され、隠沼が覗いているのではない。
 同じようにして、
 おのが身の闇より吠えて夜半の秋(蕪村)は、実は、公達に狐の化けたり宵の春(蕪村)の如くして、自由、孤独、思考が脅かされる被監視状態、被盗聴状態を(隠沼のように感光しないものを)保存しようと藻掻いている。

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