碧痕69 淋しい放電
69 淋しい放電
尾崎放哉の、その「淋しさ」は、孤独とも寂漠とも違う。影は、その奇妙さに於いて、何よりも身近で何よりも疎々しく、露頭すると薄気味悪く迫る(つまり、脅かす)ものの隠喩であるが、この世のものは影を落とすのであるから影は、現実性を補強するものでもある。それは、この世ならぬものとこの世のものとの間に揺れている。
つくづく淋しい我が影よ動かして見る(放哉)
静かなるかげを動かし客に茶をつぐ(同)
鐘ついて去る鐘の余音の中(同)
我が、その煩悩の細部を枯葉を振るい落とすように除いて落ちる影の、人知れぬ抽象が淋しいのではない。自由、孤独、思考が剥奪されて我こそは影に反転する、その人知れぬ変脱が淋しいのであり、鐘ついて去る我こそは、実は、鐘の余音が落とす影なのである。
雨の傘たてかけておみくぢをひく(同)
いつ迄も忘れられた侭で黒い蝙蝠傘(同)
海のあけくれのなんにもない部屋(同)
同じようにして、我が蝙蝠傘や空っぽの部屋を影として落とすかのようにして、実は、我こそが蝙蝠傘や空っぽの部屋の落とす影として被盗聴状態にあるのである。
肉がやせてくる太い骨である。(同)
犬をかかへたわが肌には毛がない(同)
爪切ったゆびが十本ある(同)
聞こえぬ耳をくっつけて年とってる(同)
太い骨、体毛、ぴらぴらして十に分岐した指、くっついた耳、これらは、内臓がそうであるように、影の逆隠喩である。それらはいま薄気味悪く迫る。しかし、淋しいのは、肉が削ぎ落ちた全身、犬コロを抱く上半身、爪屑や耳が代表する身体の末端が、影に変脱していることである。
放哉の俳句は二つのカーストに分節される。地と浮かび上がる模様であるが、地は内臓のように影の逆隠喩であり、逆隠喩を以て迫り上がり、模様が影に変脱するのである。
沈黙の池に亀一つ浮き上る(同)
炎天の底の蟻等ばかりの世となり(同)
これらは、しじまと行住坐臥のざわめきの対照ではない。亀一つの浮上、蟻等ばかりの世の淋しい放電は、それらの領土が影ではなくなるのである。
灰の中から針一つ拾い出し話す人もなく(同)
畳の目にこぼれて地獄の山の草となって生えているはずの針が、灰色の沈黙の底から祟り返しているのは、煩悩の、淋しい放電である。新しさを拘束、制限しながら約束している予期の光に照らし出された針の、その思いがけなさこそは新しさを孕み、この新しさが孤独を励起する。しかし、この新しさが忽ち変脱するようにカーストが逆転するのが、「淋しさ」の身じろぎなのである。
道を教えてくれる煙管から煙が出てゐる(同)
雨の幾日がつづき雀と見てゐる(同)
雀のあたたかさを握るはなしてやる(同)
かたい梨子をかぢって議論している(同)
からかさ干して落葉ふらして居る(同)
借家いつか出来て住む夫婦者の顔(同)
分節されたカーストの逆転は、現実性を補強する影としての修飾の反転でもある。或る光景の、前景、同じ前景でも大きなものを、大きなものがなければ動くものやしゃべるものを、動くものやしゃべるものがなければ派手なものを、というふうに重視することが本能的かどうかは疑わしい。軽視されている背景、沈黙して目立たない細部、後景の窓や扉の向う、漠として見えない奥、光景の枠や枠外、といった地に補強されていた現実が影に変脱して、修飾が反転することには奇妙さがつきまとう。「淋しさ」は何かおかしい、何かはずれているのである。夕立や草葉を掴む群雀(蕪村)の、夕立の沸騰と群雀の沸騰の共振、増幅には、恒温の生体を修飾する影の反転がない。いつの間にか出来ていた借家にいつの間にか来て住んでいる夫婦者の顔が、遠いというだけで見えなかった不思議であるのは、カーストの逆転、修飾の反転が起こっているのである。
一日雪ふるとなりをもつ (放哉)
鞠がはずんで見えなくなって暮れてしまった(同)
ひそかに波よせ明けてゐる(同)
何か奇妙で淋しいのは、一日雪ふることなのか、となりをもつことなのか。鞠がはずんで見えなくなったのは、修飾なのか被修飾なのか。影に変脱する現実は、ひそかに波が寄せることなのか、ひそかに夜が明けることなのか。
カーストの逆転と再逆転がこっそり起こってカーストが均されているかの如くなのだが、しかしそれは、カーストが取り消されることではない。
春が来たと大きな新聞広告(同)
この場合は、カーストの逆転は単に修飾の反転に留まらず、四大の状態を文字が代表して入れ子状態になっている。つまり、カーストは均されているが、取り消されてはいない。
松島やああ松島や松島や(芭蕉)
放哉なら、松島やああ松島や、と上り詰めて来る迄に息切れして咳くか、ああ松島やに来てゐる、といったふうに太い骨、体毛、内臓が逆隠喩を以て迫り上がる。奥の細道を領土として飽くまでも支配する孤独(絶景)の報告ではなく、造化(絶景)に面して仏ヶ浦に出るのでもなく、詠嘆の息の臭さや咳きを、影に変脱した松島(絶景)が修飾することになるひそかな逆転とひそかな再逆転を以て、或いは「色即是空 空即是色 色即是空」式の螺旋を以て、平等を世俗化することになる。
尾崎放哉の、その「淋しさ」は、孤独とも寂漠とも違う。影は、その奇妙さに於いて、何よりも身近で何よりも疎々しく、露頭すると薄気味悪く迫る(つまり、脅かす)ものの隠喩であるが、この世のものは影を落とすのであるから影は、現実性を補強するものでもある。それは、この世ならぬものとこの世のものとの間に揺れている。
つくづく淋しい我が影よ動かして見る(放哉)
静かなるかげを動かし客に茶をつぐ(同)
鐘ついて去る鐘の余音の中(同)
我が、その煩悩の細部を枯葉を振るい落とすように除いて落ちる影の、人知れぬ抽象が淋しいのではない。自由、孤独、思考が剥奪されて我こそは影に反転する、その人知れぬ変脱が淋しいのであり、鐘ついて去る我こそは、実は、鐘の余音が落とす影なのである。
雨の傘たてかけておみくぢをひく(同)
いつ迄も忘れられた侭で黒い蝙蝠傘(同)
海のあけくれのなんにもない部屋(同)
同じようにして、我が蝙蝠傘や空っぽの部屋を影として落とすかのようにして、実は、我こそが蝙蝠傘や空っぽの部屋の落とす影として被盗聴状態にあるのである。
肉がやせてくる太い骨である。(同)
犬をかかへたわが肌には毛がない(同)
爪切ったゆびが十本ある(同)
聞こえぬ耳をくっつけて年とってる(同)
太い骨、体毛、ぴらぴらして十に分岐した指、くっついた耳、これらは、内臓がそうであるように、影の逆隠喩である。それらはいま薄気味悪く迫る。しかし、淋しいのは、肉が削ぎ落ちた全身、犬コロを抱く上半身、爪屑や耳が代表する身体の末端が、影に変脱していることである。
放哉の俳句は二つのカーストに分節される。地と浮かび上がる模様であるが、地は内臓のように影の逆隠喩であり、逆隠喩を以て迫り上がり、模様が影に変脱するのである。
沈黙の池に亀一つ浮き上る(同)
炎天の底の蟻等ばかりの世となり(同)
これらは、しじまと行住坐臥のざわめきの対照ではない。亀一つの浮上、蟻等ばかりの世の淋しい放電は、それらの領土が影ではなくなるのである。
灰の中から針一つ拾い出し話す人もなく(同)
畳の目にこぼれて地獄の山の草となって生えているはずの針が、灰色の沈黙の底から祟り返しているのは、煩悩の、淋しい放電である。新しさを拘束、制限しながら約束している予期の光に照らし出された針の、その思いがけなさこそは新しさを孕み、この新しさが孤独を励起する。しかし、この新しさが忽ち変脱するようにカーストが逆転するのが、「淋しさ」の身じろぎなのである。
道を教えてくれる煙管から煙が出てゐる(同)
雨の幾日がつづき雀と見てゐる(同)
雀のあたたかさを握るはなしてやる(同)
かたい梨子をかぢって議論している(同)
からかさ干して落葉ふらして居る(同)
借家いつか出来て住む夫婦者の顔(同)
分節されたカーストの逆転は、現実性を補強する影としての修飾の反転でもある。或る光景の、前景、同じ前景でも大きなものを、大きなものがなければ動くものやしゃべるものを、動くものやしゃべるものがなければ派手なものを、というふうに重視することが本能的かどうかは疑わしい。軽視されている背景、沈黙して目立たない細部、後景の窓や扉の向う、漠として見えない奥、光景の枠や枠外、といった地に補強されていた現実が影に変脱して、修飾が反転することには奇妙さがつきまとう。「淋しさ」は何かおかしい、何かはずれているのである。夕立や草葉を掴む群雀(蕪村)の、夕立の沸騰と群雀の沸騰の共振、増幅には、恒温の生体を修飾する影の反転がない。いつの間にか出来ていた借家にいつの間にか来て住んでいる夫婦者の顔が、遠いというだけで見えなかった不思議であるのは、カーストの逆転、修飾の反転が起こっているのである。
一日雪ふるとなりをもつ (放哉)
鞠がはずんで見えなくなって暮れてしまった(同)
ひそかに波よせ明けてゐる(同)
何か奇妙で淋しいのは、一日雪ふることなのか、となりをもつことなのか。鞠がはずんで見えなくなったのは、修飾なのか被修飾なのか。影に変脱する現実は、ひそかに波が寄せることなのか、ひそかに夜が明けることなのか。
カーストの逆転と再逆転がこっそり起こってカーストが均されているかの如くなのだが、しかしそれは、カーストが取り消されることではない。
春が来たと大きな新聞広告(同)
この場合は、カーストの逆転は単に修飾の反転に留まらず、四大の状態を文字が代表して入れ子状態になっている。つまり、カーストは均されているが、取り消されてはいない。
松島やああ松島や松島や(芭蕉)
放哉なら、松島やああ松島や、と上り詰めて来る迄に息切れして咳くか、ああ松島やに来てゐる、といったふうに太い骨、体毛、内臓が逆隠喩を以て迫り上がる。奥の細道を領土として飽くまでも支配する孤独(絶景)の報告ではなく、造化(絶景)に面して仏ヶ浦に出るのでもなく、詠嘆の息の臭さや咳きを、影に変脱した松島(絶景)が修飾することになるひそかな逆転とひそかな再逆転を以て、或いは「色即是空 空即是色 色即是空」式の螺旋を以て、平等を世俗化することになる。


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