Sunday, May 29, 2011

碧痕74 大視症の極限

74 大視症の極限
 夢を見るには、先ず眠らなければならないにしても、閉じたまま眼を開けなければならない。眠りを媒質にした覚醒なのである。この覚醒の闖入に、先住民は驚くというふうでもない。むしろ何かを知っているというふうで、その秘密から疎外されているのも、何も知らされていない奇妙さに掻き乱されるのも覗く方である。つまり、他の誰かの現実に巻き込まれたかのように、見られる夢の、その受身に於いては、分割された四相(受身、可能、尊敬、自発)が収斂している。選択し制禦できる現実ではなく、予定調和的全体を疑い、日常性の何処にも位置を占めず、安定も本質も欠如している。しかし、それは、化の隠喩としてこの世のものであり、個々の夢の出現に於いて潜伏する呼び声(命令)が同時にその夢の意味である限りで、従ってその受肉(夢(呼び声))が意味不明になる限りで、この世に獅噛みついているのである。
 媒体であることは恥辱だろうか。化の隠喩としての夢に於いては、媒体であることの隠喩として見られる夢の、その受身の四相の収斂の、すなわち、自由、孤独、思考の剥奪の、その程度が取り消されてはいないので、からかわれていることに面しての反応が、剥奪の程度が取り消された被造物であることに面しての戦慄などとは異なって、恥辱であり、その程度は、剥奪の程度の指標になる。変な夢を見た、といった呟きや一蹴は、そうした恥辱の照れ隠しのようなものである。
 神に面すること、それは「私」の大視症が極限に器官を延長することを以て「私」が解けてしまうこと、器官の延長の末端でしかないことへ連れ戻されること、極端に器官を延長しなければ神に届かなく、しかしそれは「私」こそが極端な器官の延長であることに出てしまうような、大視症の解脱である。神を証明するのは被造物であることの、この端末性に被曝することであるが、それは、そこから辿り返して遡上し得る痕跡ではなく、何の履歴でもない。極端に私的な夢の対極としての死体は極端に公的であるが、どちらも自由、孤独、思考が剥奪されていて、死体の沈黙と不動は恥辱の照れ隠しである。それは、そこから遡上し得る痕跡であり、ミステリを内蔵した死体から辿り返す犯人探しのオイディプス的変脱は、極限に器官を延長する「私」こそが極端な器官の延長であることに出てしまう解脱の隠喩である。

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