碧痕76 オイディプス的変脱
76 オイディプス的変脱
小津安二郎のように、煙突や塔や観覧車に(富嶽や月や重波に)移植された猛禽類の鳥瞰、すなわち、広角レンズと望遠レンズを同時に使う目が、市川準の場合、音にも適用されている。画面には街や学校のざわめきが満ち、フレーム外の一隅の声が拡大されて拾われる、というように。「あおげば尊し」では、葬儀の終わりに期せずして湧き起こった「あおげば尊し」が、暗闇というよりは物語る目も届かない断絶の黒闇の外で72年版「あおげば尊し」に変わる。画面を占拠する黒闇が死を暗示するとしても、それは、フレーム外にちりばめられた複数の「あおげば尊し」がすくわれるためのノイズである。つまり、死は、ズーム・アップしようとすると広角レンズがノイズとして黒闇を広げてしまう、というふうに測定も感光も逃れてしまうのである。
「東京夜曲」(市川準)では、画面を占拠した黒闇が、自転車に乗って風を孕んだタミの、その静止画像に変脱する。それは、変ナ夢ヲ見タ と呟いているかのようだ。恥辱を照れ隠して上がった死体に収縮したタミの、そのミステリが一気に横溢して辿り返される。この秘密を、こっそり、或いはうっかり浮かび上がらせるために占拠するノイズは、がらくたが堆積していく上宿商店街の、その底力のようなさざめきやうわさであり、地表に出たメトロの通過であり、土地が落とす影のような運河や塔や橋梁であるが、そこでタミは、精いっぱい器官を延長してみたのに、それはヒサコとなってしか浜中に届かず、しかもヒサコの器官の延長となって大沢に届いてしまっていることに、あさましがる。タミもヒサコも、互いに余計なものとして双子の霊に呼び出されながら、オイディプス的変脱を受肉しているのである。
この、珠玉の、清奇な静止画像(自転車に乗って風を孕んだタミ)は、タミを模写する抽象と、オイディプス的変脱の受肉とが重なって(乖離して)いる。
小津安二郎のように、煙突や塔や観覧車に(富嶽や月や重波に)移植された猛禽類の鳥瞰、すなわち、広角レンズと望遠レンズを同時に使う目が、市川準の場合、音にも適用されている。画面には街や学校のざわめきが満ち、フレーム外の一隅の声が拡大されて拾われる、というように。「あおげば尊し」では、葬儀の終わりに期せずして湧き起こった「あおげば尊し」が、暗闇というよりは物語る目も届かない断絶の黒闇の外で72年版「あおげば尊し」に変わる。画面を占拠する黒闇が死を暗示するとしても、それは、フレーム外にちりばめられた複数の「あおげば尊し」がすくわれるためのノイズである。つまり、死は、ズーム・アップしようとすると広角レンズがノイズとして黒闇を広げてしまう、というふうに測定も感光も逃れてしまうのである。
「東京夜曲」(市川準)では、画面を占拠した黒闇が、自転車に乗って風を孕んだタミの、その静止画像に変脱する。それは、変ナ夢ヲ見タ と呟いているかのようだ。恥辱を照れ隠して上がった死体に収縮したタミの、そのミステリが一気に横溢して辿り返される。この秘密を、こっそり、或いはうっかり浮かび上がらせるために占拠するノイズは、がらくたが堆積していく上宿商店街の、その底力のようなさざめきやうわさであり、地表に出たメトロの通過であり、土地が落とす影のような運河や塔や橋梁であるが、そこでタミは、精いっぱい器官を延長してみたのに、それはヒサコとなってしか浜中に届かず、しかもヒサコの器官の延長となって大沢に届いてしまっていることに、あさましがる。タミもヒサコも、互いに余計なものとして双子の霊に呼び出されながら、オイディプス的変脱を受肉しているのである。
この、珠玉の、清奇な静止画像(自転車に乗って風を孕んだタミ)は、タミを模写する抽象と、オイディプス的変脱の受肉とが重なって(乖離して)いる。


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