Friday, August 26, 2011

碧痕99 ナチズムの霊

99 ナチズムの霊
 化の擬態は、その平均化、単純化に祟り返している複合・零度を(あたかも分割するかのように)それと知らず使いこなす技術である。それは被造物であることの世俗化であり、更には大衆化にいきつく。大衆化は、被造物に顕れる不正(個や新しさといった尖り、ずれ、傷)を削り落とし、滑らかなクローンやキッチュ、消耗品であることに気づかないためであるかのように消費する、といったふうに器官を延長する様式である。そこでは、個性や新しさもキッチュであり、クローンであり、そのことに面して神経衰弱も履歴改竄も起こらない。これは、生産と消費を分業する貴族制的な器官の延長の様式の対蹠点である。大衆であることは、消耗品に「顔(理想)」が感染保存されているために自身消耗品であることが度忘れの状態にあること、或いは、消耗品に面して自身の「顔」のようなので驚き、驚かないためであるかのように消費することである。
 ナチズムの霊、それは、大量に消費されるユダヤ人に顕れた消耗品であることを度忘れしていられるようにユダヤ人を生産する分類装置であり、「大衆であること」の新興様式である。
 要素が起源を代表する単純化とそのエラー状態の間に、ナチズムは振動する。それに先立って、極端に平均化された大衆の、その平均化は「私」という突出を脅かすために、大衆であることは平均化から藻掻き出ようとして、部分が全体を代表する(一世代が全世代を代表し、要素が起源を代表する)写真撮影の如き単純化へ振れる。しかし、代表することは媒体であることである。ナチズムが猖獗を極めるのは、単純化のエラー状態に振れた場合で、序列、命令系統、世代系統の至る処で、代表することの優越が取り消されて履歴改竄が起こり、誰とでも入れ替わり、監視と被監視が入れ替わり、器官の延長と消耗品と余計なものとが区別がなくなり、大衆であることとユダヤ人であることに、互いに余計なものに似ようとする双子の霊がかかることになる。
 優劣の分業のためにナチがユダヤ人を保存することはない。別の素材で余計なものをいくらでも生産できるのである。双子の霊は最終的には内攻する。それは、義歯、義手、義足、内臓移植、眼球移植、骨髄移植というように順次置き換えていった末に何が置き換え難く残るか、という実験に酷似している。

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