碧痕107 ユーモアとしてのガリレオ裁判
107 ユーモアとしてのガリレオ裁判
フロイトの、論駁不能にする「否定」(打ち消されたものの抑圧の解除としての否定)の理論と、科学的理論の果てしもない仮説状態は同根ではないのか?
科学的態度は、その仮説がもはや維持されなくなった時に傷つかないように配慮されているが、フロイトの指摘に従えば、ユーモアの態度も傷つかないようにするためにである。だじゃれをとれば、それは、或る言葉が仮に聞き分けられ理解され出現するためには打ち消されなければならなかった地獄のヴォリュームの、その一角ですらないかけらが浮かび上がり、縁生の、その裂目に面しての模写発作が概して横隔膜の痙攣というに過ぎないが、だじゃれの通用しない人々にあっては薄気味悪さに顔面がひきつりさえする。矛盾する事実が発見されたために起こる仮説の崩壊も、おかしくもあれば不気味でもあり、何か導かれている、或いは、試されている、といった奇妙な衝撃がある。フロイトの「否定」の理論は、ユーモアというしかない。それは、縁生が打ち消す地獄のヴォリュームの(出現するものが打ち消す隠れたものの)解き放ちに属し、果てしもない。
ガリレオ、デカルト、フロイトの態度、すなわち、いつまでも満たされない懐疑は、悪夢というよりは、窮極のユーモアすなわち試練の変奏である。
フロイトの、論駁不能にする「否定」(打ち消されたものの抑圧の解除としての否定)の理論と、科学的理論の果てしもない仮説状態は同根ではないのか?
科学的態度は、その仮説がもはや維持されなくなった時に傷つかないように配慮されているが、フロイトの指摘に従えば、ユーモアの態度も傷つかないようにするためにである。だじゃれをとれば、それは、或る言葉が仮に聞き分けられ理解され出現するためには打ち消されなければならなかった地獄のヴォリュームの、その一角ですらないかけらが浮かび上がり、縁生の、その裂目に面しての模写発作が概して横隔膜の痙攣というに過ぎないが、だじゃれの通用しない人々にあっては薄気味悪さに顔面がひきつりさえする。矛盾する事実が発見されたために起こる仮説の崩壊も、おかしくもあれば不気味でもあり、何か導かれている、或いは、試されている、といった奇妙な衝撃がある。フロイトの「否定」の理論は、ユーモアというしかない。それは、縁生が打ち消す地獄のヴォリュームの(出現するものが打ち消す隠れたものの)解き放ちに属し、果てしもない。
ガリレオ、デカルト、フロイトの態度、すなわち、いつまでも満たされない懐疑は、悪夢というよりは、窮極のユーモアすなわち試練の変奏である。


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