Wednesday, December 28, 2011

碧痕139 提喩の衝動の、振動

139 提喩の衝動の、振動
 「愛に関する短いフィルム」(Kieslowski)の場合のように置き換え難さを拡大する覗き穴が、「殺人に関する短いフィルム」の場合は逆に縮小してしまう。
 殺人に於いて、器官の延長の媒体であることは、何か一貫したものとしての「私」を裁く司法的には免罪であるが、moral に反する。
 人殺しとは、何の媒体となることなのか。
 ヤチェクの妹の、聖体拝領の時の写真には胴体を切り裂く不吉な傷が走っている。妹はトラクターに轢かれて死んだ。運転していたのはヤチェクの友人で、事故の前に二人で痛飲していた。司法はヤチェクを罰することはないが、ヤチェクの痛恨に於いては、ヤチェクの器官の延長としての友人を通してヤチェクが殺したかに思えてならない。妹を轢死させたのは友人の姿をかりたヤチェクである。その贖いのために、ヤチェクは人殺しをする。そうしなければ罰が届かないからである。この論理は公には顕れない。ヤチェクの人殺しは発作的に見えるし、何か強迫的な暗示にかかっている。観念の媒体なのである。従って、司法が絞首刑を以て裁くのは、観念の媒体としてのヤチェクではなく、観念を代表するヤチェクである。
 この肥大した観念は、ヤチェクの首に不吉な傷の入った肖像写真であるのに、肖像写真がヤチェクを代表するのではなく、ヤチェクが肖像写真を代表する、この顛倒のためにか、ヤチェクの発動する覗き穴は、置き換え難さを拡大するのではなく、望遠鏡を逆さまに覗いたときのように置き換え難さを縮小してしまう。妹を代表する聖体拝領の時の写真を通して妹の置き換え難さが益々拡大するのとは逆に、ヤチエクの覗き穴の向こうでは置き換え難さの縮小が加速している。それは、ヤチェクを地上に繋ぎ留めている重さが揮発してハエになっていくことでもある。

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