Monday, January 31, 2011

碧痕44 二百十日へ

44 二百十日へ
 言葉は使われる(役に立つ)限りで、従って区別される限りで、意味があ(生)る。差し当たって意味は私的であるので、その特殊性の目じるしとしても言葉は使われ得るが、不発にならないように様々な劇化がほどこされる。余白(省略、簡潔)、集中(反復、増幅)、逸脱など、均されないように、熱平衡を脱する差別の工夫である。尤も、逸脱が普通であるような環境では奇に抗することこそが平凡に抗することになる。

 「敵艦見ゆ・・・」の受電に接して、バルチック艦隊との決戦を鼓舞し、作戦参謀秋山真之が電文につけ加えた、本日天気晴朗ナレドモ波高シ は、簡潔・透明であるが、夢のように韜晦している。戦時的・号令的環境にしては回路が膨らみ過ぎている、しかしそれは、ドンぴしゃに響いた。大本営や前線だけでなく、背後本土の尋常の国民にもドンぴしゃに響いた。
 それは、ソメイヨシノのように日本の津々浦々に、昭和の時代まで普及して回路は痩せ細るが、なおも沸騰のなごりがあった。マイクとスピーカーの試験は、ホンジツハセイテンナリ というものだと子供たちはカマキリやキリギリスの形のように面白がった。紅白に分かれても源平の合戦の味わいなど微塵もなかったが、「本日天気晴朗・・・」はなおも熱平衡をまぬがれて昆虫の如くひちつき、スズメの如く躍った。
 日本哨戒線をかいくぐってバルチック艦隊は暗夜、濃霧のシナ海を北上し、五月二十七日早朝には二〇三地点と呼ばれる哨戒区域に既に達していた。哨艦信濃丸が三檣二煙突の大汽船を発見した時、信濃丸は二列梯陣の体形で蜒々と連なる大艦隊のど真ん中に入り込んでいたのである。バルチック艦隊は津軽海峡から現れるのか、朝鮮海峡から現れるのか、連合艦隊主力は朝鮮半島南部鎮海湾に密かに集結していたので、敵艦隊の性能から二十七日正午までに出現しなければ初っ端から振り回されることになる。しかしついに、待ち侘びていた大艦隊の影を暗い海上に目撃したのである。
 先ず敵艦隊の異観に接触した巡洋艦和泉は、肉眼でも陣形や艦型が判別できるほどの近距離で並航しつつ明細に情報を打電する。
 どれもこれも夢じみている。この現実を(その形式(潜在内容)がしかも意味であるようにして)現実以上のものにし、出現すると同時に潜伏するものがまた、「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の回路を増幅するのである。
 神経衰弱にかかっている日本が目撃した、暗い海上を迫り来る大艦隊の影、それは、覗き穴を盗まれて誘導されている被監視状態の日本が覗き穴を回復した瞬間の、露国艦隊以上の勢力の輪郭であり、この秘密な瞬間の、この二重の代表(表情)は、虚構、序列を以てする歴史的到達にして、日本を包囲する拡張衝動の一つの解でもある。操られている被監視状態の、その濃霧の一角が忽如として散ずる、その私的瞬間こそは、「本日天気晴朗」であり、麻痺していた距離感の回復によって「ナレドモ波高シ」を含む武者震いなのである。
 顔も知らない吉良上野介を探して闇の中、次々と襖を開け放っていく赤穂浪士を待っていた私的瞬間に、これは酷似している。その秘密な瞬間は、上野介の生首を以て満たされることを疑っている。その生首以上に重い生首の、この秘密な瞬間から誰も生還しないために、くりかえし遡って別の範疇、別の序列を以て到達・保存しようとして、この事件は拡張し続けている。

 漱石は、第六号潜水艇の沈没と艇員士卒の全滅、その経過を、鼓膜を破裂させそうなほどに高まる水圧と刻々の呼吸困難に耐えつつ記録した佐久間艇長の遺書に接して、その殉難、犠牲を「不可思議の行為」となし、そのモラルの煥発を(当時の自然派なら本能の優越の証左として扱いそうな、英国での同様の潜航艇の遭難に於いて、乗組員が先を争うように水明かりの洩れる窓の下に折り重なって死んでいた、という事件を伝えつつ)本能の煥発と対比している。
 鴎外が「阿部一族」「堺事件」「最後の一句」などで迫ろうとしたように「異常心理」と呼ぶだろう、こうした犠牲のモラルは、保存の衝動と矛盾しているかに見えるが、保存の衝動は本能のその媒体性が鎧う擬態であり、つまり、むしろ、本能の(生贄であることの)煥発に、このモラルの煥発は倣っているかに見えるのだが、実は保存の衝動の一つの解として発露しているのである。
 対比されている、犠牲のモラルの煥発と保存の本能の煥発は、衝動としての嘘とモラルとしての正直がそうであるように、擬態(の霊)の気配を消した保存の衝動の解の正と負の組合わせである。擬態の気配を消している限り、どちらの発露にも神経衰弱はかかっていない。擬態の気配の、その二重性が犠牲と保存とに分割されているのである。しかし、「不可思議」の行為「異常」心理を以て発作的に模写する生体反応は、擬態の気配が消せぬままに(擬態に打ち消されて疚しさとなって潜伏している)生贄であることが祟り返した神経衰弱であって、犠牲と保存との分割を以て仮そめに鎮められてはいない。

 日露戦争前後の日本の被監視状態は、方解して、大逆事件の幸徳秋水の被監視状態に収束する。それは、明治天皇の被監視状態が全滅を代表する乃木大将に収束することのparaphraseである。
 全滅を代表する佐久間艇長の銅像が夜泣きする、といううわさが漂ったように、狐憑き状態に面して不可思議、異常を以て反応していた人々は、銅像が代表するような極端を銅像に閉じ込めて追放し、嗚咽を以て浄化し、しかもその嗚咽を銅像に転移して修飾する。危機に面して蜥蜴の尻尾が蜥蜴を代表すると同時に代表しないために切り離される、そのようにして、犠牲のモラルがかかった「私」から身体が切り離されるように、擬態の気配が消えた保存の衝動がかりの人々は犠牲のモラルを切り離したのである。
 2010年、小惑星イトカワから帰還したカプセルのなかに地球外の粒子が採取されていたということで、ひとしきり人々は興奮している。これは、何億キロかをズーム・アップし、更には何十億年かを遡上して覗き見る興奮であり、分業を含めて器官を延長する興奮である。日露戦争の、旅順攻略、奉天会戦勝利、バルチック艦隊撃滅に沸騰した感激も、こうした器官を極度に延長する興奮であるが、この器官の延長も、蜥蜴の尻尾のように切り離される。膨張していた力が一気に収縮する、この切断は、犠牲のモラルを切り離すことでもあり、ポーツマス講和以後の人々の怒りは、実は、秘密なこの切断の潜伏である。全滅そのものである乃木大将の、その最期は遅れて来たが、そのスロー・モーションの極に於いて、その静止画像は、切り離された犠牲のモラルの、その生首であり、そこには、明治の被監視状態が夢のように韜晦している。
 こうした生首は、銅像や鳥居の内に閉じ込められても、いつまでもおとなしくはしていない。

Thursday, January 13, 2011

碧痕43 ヨハネのように前触れる

43 ヨハネのように前触れる
 ハンヨは魯の寶なり。好い哉ハンヨは。遠くして之を望めば煥若たり。近くして之を視れば瑟若たり。一つには理に則って勝れたり。一つには孚に則って勝れたり。(逸論語)
 ハンヨが持主の接近に感応して光り出したのであるが、その忽光(ピンぼけ)が、その二重性を遠―近 秘密―隠れなさ 命令―服従 形式(霊)―具体などに分割して、paraphraseされようとしているのである。
しかし、この忽光は、こんなに近いのに遠く、こんなに秘密じみているのに隠れなく、コモリヌのように宙に浮いている。
 癲癇を前触れるアウラのように、この忽光は、こうした接近を、ヨハネのように前触れる。Gustav Moreau の、Salomeに出現したヨハネの、宙に浮かんだ首は、その持主であるSalomeの接近に感応して光り出し、盗まれているかのように前触れる。

Friday, January 07, 2011

碧痕42 終結法、コモリヌ

42 終結法、コモリヌ
 物語が、静止画像(時間の拡大(スロー・モーション)の極)を以て終わらないのであるのならば、何事もなかったようにまた一日が始まった、というように、ズーム・アップして来た物語から一気に遠ざかること、平穏無事の日常の広がり(流域)を以てする。パニック映画や「MW」「黄金のトランク」などの終結法も静止画像ではなく、何事もなかったように・・・である。
 こうした拡張の極に於いて一気に収縮するもう一つの終結法が、「百年の孤独」や「紅楼夢」「アドルフに告ぐ」などに見られる。一方は大気を寂漠にし、もう一方は擬似奥行(入れ子)にする。
 このように、物語の終結法は、生贄であることの同毒療法として物語る衝動の、その解と展開を要約する。
 「千夜一夜」のように展開が入れ子であると、覗き穴が涌き出すごとにコモリヌにかかる露出時間が巻き戻されてしまう。これは、迂闊にも400 年が過ぎ去ってしまっていることのparaphraseである。
コモリヌが地形として写真にうつらないままに別のコモリヌにかかる別の露出時間がうごき出してしまうのである。
 孫悟空の神通は唐と天竺の距離を廃棄して瞬間移動する如く広大であるが、それは、「西遊記」の展開が、大視症の極に於いて覗き穴を盗まれているピンぼけに繰り返し連れ戻されること、すなわち、繰り出される妖怪変化の棲む仙洞(コモリヌ)に繰り返し連れ戻されること、つまり、入れ子であることを、しかし部分が全体を代表するような入れ子というより、部分が全体を代表するためにその部分がどの部分とも入れ替わるような入れ子であることを、密告している。

Wednesday, January 05, 2011

碧痕41 「赤い高粱」

41 「赤い高粱」
 生贄であることが疚しさとなって潜伏しても、アダムとエバには神経衰弱となって祟り返し、カインには追跡(被監視)の気配となって迫り、アブラハムには履歴改竄となって祟る。それぞれにかかる呪詛は、「私」というものへの(つまりは、寿命と死滅への)誘惑と兄弟殺しと子殺しである。塵であることを脱することへの誘惑、しかしそれは、死滅を以て「自由、孤独、思考」が均されてしまうことに面してしまい、兄弟殺しや子殺しは、何よりも身近で何よりも疎々しく(盲目でもあるかのようにヤーウェに、アブラハムよ汝何処にや居る、と呼び出しを喰うような)何よりも秘密にして何よりも隠れなく、打ち消され疚しさとなって潜伏しているもの、それが何なのか分からないままに、その薄気味悪く迫るものが身近なものに入れ替わる混乱振りなのである。

 我子を写真に展翅することには、イサクを燔祭に供えようとして旅するアブラハムの話が貫いている。
 部分が全体を代表することは実が種を孕むようなことであるが、具体の極としてのイサクは個別性も普遍性も、部分も全体も疑い、実が種を孕むとも種が実にかかるともつかない、漠として拡張すると同時に一気に収縮するピンぼけで、法則的到達・保存でも歴史的到達・保存でもなく、真偽の範疇も範疇そのものも疑う、つまり、写真にうつらない。このピンぼけは、被写体の写りがそうだというのではなく、写真撮影の失効、到達・保存の衝動がその擬態を解かれるのである。
 アブラハムが息子イサクを(写真に)展翅するのに、その旅の長さだけの露出時間がかかる。それは生贄であることを免れるのではなく、ピンぼけ(生贄であること)を隠す擬態の気配が消えるのである。擬態の気配を消して我子を写真に展翅し、生贄であることは写真にうつらない。物語はしばしば釘づけの磔刑の十字のような静止画像で終わる。しかし、その、時間の極端な拡大(スロー・モーション)は、拡張すると同時に収縮するピンぼけ(この世ならぬものの忽然とした出現)に向かって物語が駆り立てられていたことの目じるしでしかない。ピンぼけは分割されたままなのである。それは、鮮明な静止画像と引き替えに眠り込んでいる。
 生贄であることがイサクに顕れたためにそのことが度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めて来ている)状態にあるアブラハムの、その沈黙の旅の如く、「私」は父や祖父や祖母や羅漢大爺を展翅しようと遡上して物語る。玉蜀黍のようにヒトに取り憑いた「赤い高粱」(莫言)の、その繁殖が果てしもなく広がる墨水河流域が年々歳々変わることなく要求した生贄の、その解の一つとして羅漢大爺も祖母も祖父も父も拡大され、騾馬を繋ぐ杭に架けられ、耳を削がれ、陰茎を切り取られ、生きたまま皮を剥がれる、といった視線を釘づけにする静止画像を、その旅の長さだけの露出と時間の極端な拡大を以て展翅しても、何かいわれのない責めが疼く。それは、「私」というものの、その擬態が解けかかっているからなのだが、何だかわからないままに「私」は、その責め苦を、今こうして生きる子孫の退化の精にしてしまう。