Monday, February 28, 2011

碧痕52 「電波」、露頭

52 「電波」、露頭
 ヤーウェに呼び出しを食らっているのにアブラハムは、イサクに生贄であることが顕れたためにそのこと(しかも誰であるかの区別なく呼び出されていること)が度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めている)状態になる。同じようにして、「おれに電波が来る」深川の通り魔は、誰であるかの区別なく狙われることが他の誰かに顕れたためにそのことが度忘れの状態になるが、この通り魔は、他の誰かに「おれに電波が来る」を感染・保存するだけでなく、傍観者に度忘れ状態を感染・保存しもする。
 この「電波」は、カーストのフェロモンの放出ではなく、極端な差別としてのカーストの取り消しであり、しかし深川の通り魔は事件としての昭和天皇のキッチュである限りで、白いブリーフとロング・ソックス、ハンカチを口腔に詰め込まれた、その珍妙な(どこか、後ろ手に吊るされた「囚われの姫」に通底する、エログロナンセンスな)いで立ちを以て誘拐されていたのである。

 1995年宜野湾市海浜公園で、米海兵隊員による少女暴行事件に抗議した八万五千人に及ぶ県民集会、「あの巨大な意思表示、あれだけの規模とエネルギーの、統御された集会を実現する、民主主義の実力、「爆発」を憂う声を聞きながら、普天間が何も変わらぬ情況の長く続くなかで、「爆発」が決して起こらずに来たことこそ、沖縄県民の実力を示している」(大江健三郎)
 つまり、一揆、打ち壊しのような「爆発」、履歴改竄の衝動が溢れ出さずに、生活の法則と平均化の保持のうちに八万五千人の抗議集会を整然と実現する粘り強い底力を、沖縄県民の「民主主義の実力」と呼んでいるのであるが、それは、米海兵隊員に「電波」が来たことを拒否し、少女に「電波」が来たために他の誰もが度忘れの状態になる限りで「電波」の圏外に留まることなのである。
 この圏外とは、少女がそれまで呼吸していた媒質から打ち上げられて「電波」に被曝することになる、そうした媒質としての日常性、カーストのフェロモンが届く日常性である。しかし「巨大な意思表示」とは、そうした圏外に覗いている露頭、「電波」が届いた少女を供える殺到としての総身の毛も太る和声であり、砂川闘争の、あの「赤トンボ」や「ふるさと」の鳥肌立つ大合唱の発生、一般意志もカーストも追いつかない薄気味悪く迫る気配の露頭である。

Friday, February 25, 2011

碧痕51 空の逃走

51 空の逃走
 昭和33年12月24日、公開された東京タワーの展望台を目指す行列は浜松町まで伸びていた。それは、序列であるのに、「東京音頭」が鳴る蓄音器の周りを人々がぐるぐる踊って廻る如くに、実は平均化である。この(時として富嶽の如く覚醒する)塔は、焼跡からの復興の高らかな記念碑にして境界標式には違いないが、寧ろ、戦後アメリカ的なもののキッチュとして津々浦々にコカコーラやヒメジオンのように帰化しようとした「デモクラシー」「大量消費」「文化的」等々の総括としての「一億総中流」へ、カーストを促進するフェロモンを放出した。
 「ジャズ」や「ロカビリー」といった音楽にかぶれることも、若者を脅かすものに若者は駆り立てられるという法則の平均的な運用でしかない。同じ年のウエスタンカーニバルの「失神」は、特別であることに面して誰であるかの区別なく狙われてしまうことに面してしまう、その裂目を模写するのではなく、その裂目が眠り込むことを発作的に模写する。それは、平均化の衝動であり、デモ隊一万人の、誰とでも入れ替わる一万の自乗の殺到に呑み込まれて、しかし前へ押し出されまいと足掻く空の逃走に似ている。樺美智子に生贄であることが顕れたために、その裂目が度忘れ状態になるのは、平均化の衝動が空の逃走の如く振る舞うのである。議事堂周辺に押し寄せた三十三万人のデモを支配する衝動、それは、御成婚のパレードで美智子妃が通過していく沿道の群衆に顕れた衝動のもう一つの解に過ぎなく、それが擬態として空の逃走になるようにする何か、その後の美智子妃の顔にこっそり、しかも過激に顕れる能面のような何かが打ち消されている。
 徳川夢声の一声で、応募はがき八万六千通のうち一位を占めた「昭和塔」ではなく、0.3%に満たない「東京タワー」に決まったことで、「東京タワー」には、打ち消された「昭和塔」が暗い熱病のように潜伏することになる。それは、東京地方を覗くと同時に昭和を見渡す。その日展望台の西方に見えたという富士山が、3.10の焼跡から見えた37番目の富嶽を孕むように、或いは「行く年来る年」の各地の中継画像と梵鐘の響が津々浦々に示現するように、それは、一気に拡張すると同時に一気に収縮する戦慄なのであるが、この裂目(寂漠)が眠り込んでいる度忘れ状態が、空の逃走として、ツアーリズムのカーストを二重橋、皇居前広場、雷門のように東京タワーが占めることなのである。

Monday, February 21, 2011

碧痕50 玉音

50 玉音
 吉野山の桜や銀座の、そのキッチュが日本の津々浦々に出現するように、蓄音器が玉音放送じみた中心をなして1933年「東京音頭」は津々浦々に流行した。それは、前年発表の「丸の内音頭」の焼き直しに過ぎなかったが、「国体」の、すなわち「本源」と「分」の、そのキッチュとして丸の内は力不足だった。

 徳川夢声の敗戦日記が報告する8.15、それまで聞いたことのないその声は、声帯を通して、更には雑音の多いラヂオを通して届いた天来の妙音にして、その清らかさに細胞という細胞が悉く震え、そのありがたさは毛の先まで貫く。あさましがることは、コレガ天皇ノ声ナノカ という忽然とした思いがけなさであって、「耐エ難キヲ耐エ忍ビ難キヲ忍ビ」から久方の重波(しきなみ)が一気にふくれ上がって一気に収縮する虚構の痙攣(模写のエラー状態)に胸が決壊するのである。コレガ天皇ノ声ナノカ と、コレハ本当ニ天皇ノ声ダロウカ といった懐疑とは区別がつかない。コレガ東京ナノカ といった感激(拡張・収縮)も、コレハ本当ニ東京ダロウカ といった懐疑も、同じ裂目(痙攣)、エラー状態が宙に浮いているように、どちらも虚構の気配が消せないのである。しかも、この拡張・収縮(拡張と収縮の複合)は「本源」と「分」に分岐しないカーストの収斂(「本源・分」)と共振する。「耐エ難キヲ耐エ忍ビ難キヲ忍ビ」はカーストのフェロモンを放出したのではなく、忽光を放射し、清らかさ、ありがたさといった範疇を以てしては追いつけない裂目と放射に面して、戦慄と惚恍を以て発作的に模写されたのである。
 あさましがることに於いて、戦争は、終ワルコトガデキルノカ といったもう一つの解があった。それは、虚構の気配を消した「敗戦」の範疇では追いつかない。「敗戦」では模写できないエラー状態は、落涙を以てあっさり清算するどころか、人ハ死ヌノカ といったような覚醒(おどろき)である。それは、蒙昧なのではなく、虚構が秘密ではなくなること、法則的、歴史的到達・保存の、その擬態の気配が消せない痙攣である。戦時の生活の、その日常性に面して、その到達・保存が疑わしく、媒質としての(空気や、魚族にとっての水の如き)日常性から打ち上げられて、あさましがるのである。

 1945,8.15 津々浦々の玉音放送の光景には、写真にうつる狐憑き状態の等級と、写真にうつらない狐狸の気配、地獄から管を通された声とが(つまり、歴史的瞬間と、そのピンぼけとが混沌としている。
 それは、混在ではない。ピンぼけは神通(擬態の解除)であって、法則的到達・保存でも歴史的到達・保存でもないからである。

Friday, February 18, 2011

碧痕49 事件としての昭和天皇、「東京音頭」

49 事件としての昭和天皇、「東京音頭」
街頭連絡をしていて特高の網にかかった小林多喜二が拷問、虐殺され、日本が国際連盟を脱退した1933年は、津々浦々「東京音頭」(作詞西条八十、作曲中山晋平)の空前の流行を目撃した。しかし、履歴改竄の衝動は感染保存に留まった。民族の霊の、その擬態としての「国体」が(虚構の気配を消して)「本源」と「分」のカーストを入れ子状態で促進するフェロモンのようなものを、津々浦々に放出していたからである。
 「エロ・グロ・ナンセンス」の普及版として「東京音頭」はフェロモンを嗅ぎ、階級を準備し、銅像や鳥居に入って(行方知れずになって)いた犠牲の修身が祟り返そうとしていたのである。
 「分」が「本源」を代表すると同時に代表しないために切り離される犠牲こそは、昭和天皇の歴史的到達・保存であるために、そのフェロモンは津々浦々に「本源・分」(犠牲)を入れ子状態で孕ませる。グロテスクが、事件としての昭和天皇に示現していた。
 これは、擬似奥行としての被監視状態が、擬似奥行としての「国体」の入れ子状態に連れ戻されたのであるが、民族を越える左翼思想の被監視状態は、日本の被監視状態を度忘れしていられる効果を及ぼすというより、国際連盟脱退を感激と熱狂を以て迎えるように、拡張と差別が一気に収縮・収斂する「国体」の恐慌(や、その入れ子状態)が目隠しされてしまうのである。

Tuesday, February 15, 2011

碧痕48 カーストを促進するフェロモン

48 カーストを促進するフェロモン
 到達・保存の衝動としてのエロス(化)の、その擬態としての模写(歴史的到達・保存(虚構、序列))は、何かカーストを促進するフェロモンのようなものを放出する。そうした、分業を促進するフェロモンのようなものの析出が、貨幣や写真といった器官の延長である。大衆の、その平均化が実は、貴賎のはびこるカーストであることを、「エロ・グロ・ナンセンス」はなぞる。そのために「エロ・グロ・ナンセンス」は、差別を告発するようでいて実は差別にいそしむのである。

Saturday, February 12, 2011

碧痕47 グロテスクの感染・保存、「エロ・グロ・ナンセンス」の普及

47 グロテスクの感染・保存、「エロ・グロ・ナンセンス」の普及
 大衆の喉元に上り詰めた履歴改竄の衝動があふれ出そうとしているとすれば、それは、平等の擬態としての平均化が解けようとしているのであるが、虚構の気配を消そうとして大衆は写真にうつり、平均化を鎧う。
 昭和初期の大衆が、2.26事件にグロテスクが示現したために度忘れ状態でいられた、その寄生体は阿部さだ事件や拷問やゾルゲ事件に感染して保存され、更には、帝銀事件や下山事件、連合赤軍のリンチ事件や浅間山荘、地下鉄サリン事件に感染していくが、失語症や熱平衡のように範疇や序列の追いつかない無差別の衝動が喉元に上り詰めているのである。
 こうしたグロテスクは感染して保存され、写真にはうつらないが、「エロ・グロ・ナンセンス」は貨幣や写真にうつし出され、星のように等級がある。

Wednesday, February 09, 2011

碧痕46 その証拠に、虚構の気配が消されている

46 その証拠に、虚構の気配が消されている
 貨幣の模写能が孕む恐慌や被造物(塵)の模写能が孕む荘厳を解とした予期が漠として喉元まで上り詰めている度忘れ状態が、平均化である。8.6 や8.9 の思いがけない太陽は、この平均化を打ち消して誰もがマリアや菩薩になる平等を解として荘厳・恐慌・グロテスクが示現したのである。この太陽は写真にうつらない。遺された写真が報告するのは、至るところ、愚鈍な程ほんのわずかな違いから酷く拡張した差別であり、その、むごい平均化である。それは、歴史的到達・保存すなわち虚構であり、その証拠に、虚構の気配が消されているし、むごさに階級がある。

Sunday, February 06, 2011

碧痕45 オルゴール仕掛けの太陽

45 オルゴール仕掛けの太陽
 幕末、コレガ日本ナンダゾ と地球儀を指さされる瞬間、その虚構のエラー状態に於いてリトル・ナースのメンソレータムのように出現する擬似奥行(入れ子)が、明治になって、もう一つの擬似奥行(被監視状態)に水平化する。平田篤胤の、御蔭で黒船が「世界」を曳航して来るというような大視症の極に於いて覗き穴が盗まれるのである。「世界」の包囲は、夢の如く訂正不能にして、恐慌の如く神国日本の拡張は一気に収縮する。伊藤博文の恐露症は、勤王の志士の幕府を呑み込む膨張が一気に萎縮して胃がひっくりかえって喉から飛び出すような痙攣の、その谺であり、南下する露西亜は南下する露西亜以上に膨れ上がっている。大津事件に先立って、西郷が露西亜から帰って来るといったうわさが漂ったように、打ち消されたものを孕んでふくれあがるのである。
 日英同盟さえ操作され誘導されたに過ぎないことを、ポーツマス講和会議の、思いがけない(従って予期されていた)屈辱に面して、憤怒を以て模写する、つまり、思い知らされながらその認識は打ち消されて潜伏する。
 一方、被監視状態が幸徳秋水や大杉栄に顕れたために明治の日本も大正の日本も度忘れの(しかし、喉元まで上り詰めて来ている)状態になりもするが、露西亜の拡張する影、その延長としての朝鮮人襲来の気配があふれ出した流言蜚語や、ソヴィエトの赤い吐息を吹きつけられ、ハレー彗星の接近に剥き出しになった空気が息苦しく迫るように、二百十日の大地が薄気味悪く暴れて迫るように(或いは誰かが揺さぶっているみたいに)民族の霊こそは民族を脅かす。8.6 や8.9 の如き民族の厄日にかかる禍々しい太陽は、陽暦の太陽でも陰暦の太陽でもなく、出現すると同時に潜伏して、民族の鎧う擬態が解けている。
 「幕末太陽伝」(川島雄三)は、ズーム・アップから(何事もなかったように)一気に遠ざかる終結法を以て始まる。つまり、タイム・スリップして(同じこの場所で)一気にズーム・アップするのである。品川宿相模屋で攘夷、焼打ちを画策する高杉晋作が落とした時計、その、高杉晋作が上海で手に入れた懐中時計は、しかも同時に太平洋戦争後の品川をも占めることを主張するように、微かに清らかに音楽を奏で、オルゴール仕掛けなのかとはっとしもするが、幕末の、その場面の、その懐中時計とは別の源泉から聞こえて来ると思い直される。2040年が既に始まっていてもさがみ屋が今を主張する惑星の、その遊弋が鎧う虚構の解除を奏でる音楽の、その神通は、何か届かない。それは、その場面を修飾するために黛敏郎が添えた楽譜では伝わらないのである。
 しかし、時計が太陽の運行を模写するように、星辰の運行を代表する天文、人文が正史であれ稗史であれ、虚構を鎧った星辰の運行は、その、擬態の気配の消せないエラー状態に於いて序列が一気に収斂して縮み上がる。こうした恐慌を「幕末太陽伝」は幕末の衝動としてなぞる。英国公使館焼打ちの年の、その星辰の配列を服従の運動とする命令が極東の日本の世相をも支配する占星術的転写を以て、つまり、日本の世相を星辰の配列が抽象しているといった虚構を通して、高杉晋作を抽象する世と居残り佐平次を抽象する世が、オルゴール仕掛けの懐中時計に収束する。この収束を通して、高杉晋作と居残り佐平次が入れ替わるだけでなく、誰とでも入れ替わる。こうした履歴改竄の衝動、虚構の解除としての(虚構の気配が消せない)恐慌が、秘密になって祟り返すのが、明治の日本の神経衰弱であるが、幕末の、このオルゴール仕掛けの太陽は、無礼講も一揆も、お蔭参りも、暗殺も越境も解とする衝動なのである。