碧痕58 奥深さは感光しない
58 奥深さは感光しない
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺(子規)
鐘声の波紋が法隆寺の年輪にかぶるほどに転換、拡張されて一気に、柿にかぶりつく口の運動に収縮する、こうした、次元を跳び移る痙攣(忽光)は写真には写らないので、その熱平衡をカーストに展開して、生活反応、広がり、広がりの尽きる処にあらわれる奥行、これらを5、7、5に割り振って、それぞれ一つの解を以て代表する。
子規の写生は、こうしたカーストのフェロモンを放出しつつ遡行する。この遡行に於いて、一つの解を以て代表する技術、重さの虚構(の気配を消すこと)が「写生」である。
建築は、それが樹木の立ち姿、その空洞や、洞窟に準拠するのであれ、羽ぐくみや子宮をなぞるのであれ、その輪郭づけ、限定は、単なる分節ではなく、ルーペをあてがうこと(拡大)である。
このルーペが長じて天体望遠鏡や顕微鏡に変わっても、その覗き穴は、広さを限定して、その尽きる処で奥行を励起する。建造物は、虚構の気配を消した日常性の質料化である。
寺院と、庵や茶室、聴聞室との差異は、倍率の差でしかないが、広がりに応じて奥深くなるのではない。天文学的奥行の極が写真の効果でしかないからには、それが虚構の気配を消せないエラー状態では、奥行は一気に浅瀬に打ち上げられてしまう。しかし、こうした祈りに似た呼吸困難こそは天文学的興奮なのでもある。一方、聴聞室的秘密の奥行も「私」というものの擬態の気配が消せなければ跡形もない。
器官の延長としての「写生」も単なる分節ではなく、ルーペをあてがうこと(劇化)である。しかし、「写生」が遡行である限りで、媒質としての日常性と悠久に両棲する奥深さは感光しない。
古池や蛙跳び込む水の音(芭蕉)
この水の音は、つかのま熱平衡を掻き乱して波紋を広げてもそれほど遠く及びもしないし次元も越えないが、感光する。それは、日々の諸行の跫音であり、法則的であってまぼろしではなく、変化ともない経過であるが、ルーペに窃視されている。とは言え、この水の音一つではそれと気づきもしないがもう一つ続けば増幅して逼る蛙の気配、形相も、面白くなるぐらいに肉薄するというのでもなく、蛙の跳躍がスロー・モーションや静止画像になるほどに時間が拡大されているのでもなく、古池は法隆寺のように広がりの尽きる処で励起する奥行、を担うのでもない。むしろ、波紋が重波のように拡張して一気に収縮するのを(両棲を)阻む。蛙の波紋は悠久へ跳躍するのではなく、姨捨の棚田の水面に影を移す月のように一気に谺、増殖して、古池と波紋は、同じ季節が孕んで分布し、分布して来たどの古池と波紋とも入れ替わる。この古池と波紋に範疇も序列も追いつかない。こうした履歴改竄と殺到としての奥深さも感光しない。
古池や水音に当てられたルーペは古池や水音の増幅ではなく、古池や水音の増殖であり、重さの虚構の気配が消せないエラー状態、「写生」が孕んでいる「写生」のエラー状態である。何か新しみがあるとすれば、それは重さの虚構が間に合わせる素材ではなく、重さの虚構の気配が消せないエラー状態である。
公達に狐の化けたり春の宵(蕪村)
「写生」が孕んでいるのは、そのエラー状態だけではない。擬態としての写生が打ち消している化や擬態の解除も疚しさとなって孕まれている。何かぞっとする気配やおかしみがかかるとすれば、それは虚構の気配を消した擬態の、その重力の失効である。この春宵をルーペでズーム・アップしていくと、法則的、歴史的媒質は解けて宙に浮き、出現すると同時に潜伏する化の媒質としての狐狸の気配がおどろく。この熱平衡を、出現するもの、疚しさとなって潜伏するもの、生温かい春の宵闇、というふうにカーストに分節、展開して遡行する「写生」に於いて、この狐は、具体となって化けて出る霊の(疚しさとなって潜伏するものの)質料化であり、零落なのであるが、公達にかかるゴーストを孕んで、公達を通して発作的に舌を出すのである。
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺(子規)
鐘声の波紋が法隆寺の年輪にかぶるほどに転換、拡張されて一気に、柿にかぶりつく口の運動に収縮する、こうした、次元を跳び移る痙攣(忽光)は写真には写らないので、その熱平衡をカーストに展開して、生活反応、広がり、広がりの尽きる処にあらわれる奥行、これらを5、7、5に割り振って、それぞれ一つの解を以て代表する。
子規の写生は、こうしたカーストのフェロモンを放出しつつ遡行する。この遡行に於いて、一つの解を以て代表する技術、重さの虚構(の気配を消すこと)が「写生」である。
建築は、それが樹木の立ち姿、その空洞や、洞窟に準拠するのであれ、羽ぐくみや子宮をなぞるのであれ、その輪郭づけ、限定は、単なる分節ではなく、ルーペをあてがうこと(拡大)である。
このルーペが長じて天体望遠鏡や顕微鏡に変わっても、その覗き穴は、広さを限定して、その尽きる処で奥行を励起する。建造物は、虚構の気配を消した日常性の質料化である。
寺院と、庵や茶室、聴聞室との差異は、倍率の差でしかないが、広がりに応じて奥深くなるのではない。天文学的奥行の極が写真の効果でしかないからには、それが虚構の気配を消せないエラー状態では、奥行は一気に浅瀬に打ち上げられてしまう。しかし、こうした祈りに似た呼吸困難こそは天文学的興奮なのでもある。一方、聴聞室的秘密の奥行も「私」というものの擬態の気配が消せなければ跡形もない。
器官の延長としての「写生」も単なる分節ではなく、ルーペをあてがうこと(劇化)である。しかし、「写生」が遡行である限りで、媒質としての日常性と悠久に両棲する奥深さは感光しない。
古池や蛙跳び込む水の音(芭蕉)
この水の音は、つかのま熱平衡を掻き乱して波紋を広げてもそれほど遠く及びもしないし次元も越えないが、感光する。それは、日々の諸行の跫音であり、法則的であってまぼろしではなく、変化ともない経過であるが、ルーペに窃視されている。とは言え、この水の音一つではそれと気づきもしないがもう一つ続けば増幅して逼る蛙の気配、形相も、面白くなるぐらいに肉薄するというのでもなく、蛙の跳躍がスロー・モーションや静止画像になるほどに時間が拡大されているのでもなく、古池は法隆寺のように広がりの尽きる処で励起する奥行、を担うのでもない。むしろ、波紋が重波のように拡張して一気に収縮するのを(両棲を)阻む。蛙の波紋は悠久へ跳躍するのではなく、姨捨の棚田の水面に影を移す月のように一気に谺、増殖して、古池と波紋は、同じ季節が孕んで分布し、分布して来たどの古池と波紋とも入れ替わる。この古池と波紋に範疇も序列も追いつかない。こうした履歴改竄と殺到としての奥深さも感光しない。
古池や水音に当てられたルーペは古池や水音の増幅ではなく、古池や水音の増殖であり、重さの虚構の気配が消せないエラー状態、「写生」が孕んでいる「写生」のエラー状態である。何か新しみがあるとすれば、それは重さの虚構が間に合わせる素材ではなく、重さの虚構の気配が消せないエラー状態である。
公達に狐の化けたり春の宵(蕪村)
「写生」が孕んでいるのは、そのエラー状態だけではない。擬態としての写生が打ち消している化や擬態の解除も疚しさとなって孕まれている。何かぞっとする気配やおかしみがかかるとすれば、それは虚構の気配を消した擬態の、その重力の失効である。この春宵をルーペでズーム・アップしていくと、法則的、歴史的媒質は解けて宙に浮き、出現すると同時に潜伏する化の媒質としての狐狸の気配がおどろく。この熱平衡を、出現するもの、疚しさとなって潜伏するもの、生温かい春の宵闇、というふうにカーストに分節、展開して遡行する「写生」に於いて、この狐は、具体となって化けて出る霊の(疚しさとなって潜伏するものの)質料化であり、零落なのであるが、公達にかかるゴーストを孕んで、公達を通して発作的に舌を出すのである。

