Wednesday, March 30, 2011

碧痕58 奥深さは感光しない

58 奥深さは感光しない
 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺(子規)
 鐘声の波紋が法隆寺の年輪にかぶるほどに転換、拡張されて一気に、柿にかぶりつく口の運動に収縮する、こうした、次元を跳び移る痙攣(忽光)は写真には写らないので、その熱平衡をカーストに展開して、生活反応、広がり、広がりの尽きる処にあらわれる奥行、これらを5、7、5に割り振って、それぞれ一つの解を以て代表する。
 子規の写生は、こうしたカーストのフェロモンを放出しつつ遡行する。この遡行に於いて、一つの解を以て代表する技術、重さの虚構(の気配を消すこと)が「写生」である。
 建築は、それが樹木の立ち姿、その空洞や、洞窟に準拠するのであれ、羽ぐくみや子宮をなぞるのであれ、その輪郭づけ、限定は、単なる分節ではなく、ルーペをあてがうこと(拡大)である。
このルーペが長じて天体望遠鏡や顕微鏡に変わっても、その覗き穴は、広さを限定して、その尽きる処で奥行を励起する。建造物は、虚構の気配を消した日常性の質料化である。
 寺院と、庵や茶室、聴聞室との差異は、倍率の差でしかないが、広がりに応じて奥深くなるのではない。天文学的奥行の極が写真の効果でしかないからには、それが虚構の気配を消せないエラー状態では、奥行は一気に浅瀬に打ち上げられてしまう。しかし、こうした祈りに似た呼吸困難こそは天文学的興奮なのでもある。一方、聴聞室的秘密の奥行も「私」というものの擬態の気配が消せなければ跡形もない。
 器官の延長としての「写生」も単なる分節ではなく、ルーペをあてがうこと(劇化)である。しかし、「写生」が遡行である限りで、媒質としての日常性と悠久に両棲する奥深さは感光しない。
 古池や蛙跳び込む水の音(芭蕉)
 この水の音は、つかのま熱平衡を掻き乱して波紋を広げてもそれほど遠く及びもしないし次元も越えないが、感光する。それは、日々の諸行の跫音であり、法則的であってまぼろしではなく、変化ともない経過であるが、ルーペに窃視されている。とは言え、この水の音一つではそれと気づきもしないがもう一つ続けば増幅して逼る蛙の気配、形相も、面白くなるぐらいに肉薄するというのでもなく、蛙の跳躍がスロー・モーションや静止画像になるほどに時間が拡大されているのでもなく、古池は法隆寺のように広がりの尽きる処で励起する奥行、を担うのでもない。むしろ、波紋が重波のように拡張して一気に収縮するのを(両棲を)阻む。蛙の波紋は悠久へ跳躍するのではなく、姨捨の棚田の水面に影を移す月のように一気に谺、増殖して、古池と波紋は、同じ季節が孕んで分布し、分布して来たどの古池と波紋とも入れ替わる。この古池と波紋に範疇も序列も追いつかない。こうした履歴改竄と殺到としての奥深さも感光しない。
 古池や水音に当てられたルーペは古池や水音の増幅ではなく、古池や水音の増殖であり、重さの虚構の気配が消せないエラー状態、「写生」が孕んでいる「写生」のエラー状態である。何か新しみがあるとすれば、それは重さの虚構が間に合わせる素材ではなく、重さの虚構の気配が消せないエラー状態である。
 公達に狐の化けたり春の宵(蕪村)
 「写生」が孕んでいるのは、そのエラー状態だけではない。擬態としての写生が打ち消している化や擬態の解除も疚しさとなって孕まれている。何かぞっとする気配やおかしみがかかるとすれば、それは虚構の気配を消した擬態の、その重力の失効である。この春宵をルーペでズーム・アップしていくと、法則的、歴史的媒質は解けて宙に浮き、出現すると同時に潜伏する化の媒質としての狐狸の気配がおどろく。この熱平衡を、出現するもの、疚しさとなって潜伏するもの、生温かい春の宵闇、というふうにカーストに分節、展開して遡行する「写生」に於いて、この狐は、具体となって化けて出る霊の(疚しさとなって潜伏するものの)質料化であり、零落なのであるが、公達にかかるゴーストを孕んで、公達を通して発作的に舌を出すのである。

Thursday, March 24, 2011

碧痕57 1945,9.27の写真、その後

57 1945,9.27 の写真、その後
 写真のなかの、昭和天皇の顔面はキリギリスやカマキリを初めて指でつまんだ時のように面白い。燐光の精ではなく、潜んでいた光源に照射されたのであり、それはマッカーサーの方角からのようでもあるが、そうではなく、しかしまた、マッカーサーの方角を通して屈折して来るのである。
 マッカーサーの「実験」は、実は、乾燥の危機に面してアメーバーが、散在する個体の数の自乗に膨れ上がって殺到して蛞蝓のような形態で移動するように「本源」と「分」の入れ子状態の収斂に一触にして取り込まれ、その種子を培養する。津々浦々に普及する「デモクラシー」のキッチュは、「人を神に祀る風習」が「十二歳の子供」の姿をして芽を出したものなのである。
 「人を神に祀る風習」とは、平の日本人が人柱であることを度忘れの状態でいられる風習であり、平等(「本源」と「分」の複合・零度)の擬態としての平均化(カーストとしての「本源」と「分」の入れ子状態)である。その後の昭和が、打ち消された昭和の隠喩的到達・保存(化)であるのは、津々浦々にあまねき「デモクラシー」のキッチュが、この擬態としての平均化のもう一つの解だからである。

Thursday, March 17, 2011

碧痕56 分身の、励起の気配

56 分身の、励起の気配
 1945,9.27 マッカーサーと昭和天皇(マッカーサーから見て左)が並んで撮影された写真がある。想像していたよりも昭和天皇は矮小ではなく、首が長く、人質にされたような顔をしている。マッカーサーの腰から下は上半身と顔の大きさに比して不釣り合いなほどに長大ではあるが、並外れて大男というのでもない。
 昭和天皇は迂闊なほどに丸腰で呼び出しをくらっていて、マッカーサーも厚木基地でタラップを降りる総司令官ではなく、マグネシウムが眩しい、というふうだ。昭和天皇がマッカーサーに従属する、といった分業の歴史的到達・保存に時ならず何か写っていないものの気配がするのは、その歴史的到達・保存の虚構がその気配を消せないでいるのである。
 洪水が及ぶ危機に面して、流された貴種としての昭和天皇(蛭子)と、重波(しきなみ)に乗って幸さわに漂い来るゑびす(恵比須・夷)が入れ替わる、履歴改竄の気配である。それは、並列でもカーストの気配でもない。
 隠れ切支丹にとっては耶蘇教が、先住する霊の、その化の素材に過ぎないように、マッカーサーは流された貴種の、その復活の素材に過ぎなかった。何か写っていないものの気配は、入れ替わる準備としての分身の、励起の気配なのである。
 この写真がどこか如何わしいのは、流された貴種であることの感染が解消してしまっているからのようで、そうではなく、その二次感染の準備の、その励起が感光の如くであるからである。それは、事蹟、遺跡として如何わしいが、人柱と松王健児、松浦佐用媛の伝説の、その感染経路の復活なのである。
 マッカーサーと昭和天皇の(或いは、深川の通り魔の)その装束と仮面は、祭の式の準備としての化粧の如くである。

Friday, March 11, 2011

碧痕55 入れ替わる準備

55 入れ替わる準備
 新婚初夜に四崩れの末裔であると告げずにはいられない肺浸潤の男と若い看護婦とが明日の五時半に待ち合わせることにするささやかな約束、その看護婦の姉の羊水には五本指に分岐してピラピラした気色の悪か手を持つ赤ちゃんが産声を準備し、もう一人の未婚の看護婦のおなかでは減速撮影された系統発生が急速に展開しはじめているのに男は戻って来ない、肺浸潤の男の義父だというフランス料理の元コックの写真屋が得意のオムレツで明日むかしの弟子の出征を見送ろうと鶏卵を調達に来た先で重度に精神を冒され入院している娘を明日引き取りにいかなければならない愚痴話に巻き込まれる、そうした諸々の明日、法則的に保持されている日常としての明日が、8.9,11:02 壊滅する。それは、日常性が解ける寂滅ではない。しかし壊滅の潜在内容が寂滅であるかのように、法則としての明日が嘘じみるのである。(「明日」井上光晴)

 「スリ」(黒木和雄)の被監視状態は、ホームで掏った瞬間に向かいのホームに現れる刑事、というふうにだけでなく、スリがくつろいでいる背後のテーブルの上の、鉢植えの植物をはべらせた石膏像、という仕方でも現れる。それは、良心が蛇の影に凝って脅かすのではなく、二本の指に上り詰めて来ている衝迫、アル中振顫によって久しく打ち消され、疚しさとなって疼いていた衝迫が分身して脅かしかけるのであり、アルコールの麻痺作用は二本の指に疚しさを解いて覚醒しようとしているものにこそ及んでいたのである。
 それは何か。掏る技術ではない。況して掏る秘法の伝授は見当違いでしかない。強迫的に掠め盗る身振り発作が静止画像になるまでスロー・モーションを拡大して劇化しても、歴然とするのは掏る動作だけである。左のポッケにゃチューインガム、そして右のポッケにあるはずのもの、あるはずの明日を右の二本の指で繰り返し吊り上げてみるが、それはどれもこれも、打ち消された昭和の媒体としてのその後、打ち消された明日を映し出す隠喩的到達・保存としてのその後であるために、上り詰めて来ているものが萎えてしまうのである。もう明日など尋ねない、それがアル中振顫だったのであるが、しかし、その二本の指が蹂躙され、踏み潰されようとして俄然、励起しはじめるのである。俄然、我に返ったのではなく、入れ替わる準備として分身が励起するのである。

 「紙屋悦子の青春」(黒木和雄)を総括するのも、この、入れ替わる準備としての分身であり、それが、紙屋悦子に打ち寄せて来る重波(しきなみ)の気配となって出現し、同時に潜伏するものである。

Wednesday, March 09, 2011

碧痕54 アイシンギョロ

54 アイシンギョロ
 伊藤野枝、神近市子、波多野秋子などの名前を耳にすると、帝銀事件、下山事件などのように、ぞっとすることがある。市ケ谷駐屯地の事件のあった晩秋の日は穏やかだったが、ヘリコプターの音が絶えず耳の底から湧き上がって来る。愛新覚羅の名を聞いてもぞっとするが、満州語でアイシンギョロ ギョッとしたのはひとりではない。その証拠に、イチョウの黄葉が気配を立てて落ちる。
 愛新覚羅、愛染カツラ、ノウゼンカズラ、と唇や舌にのせてみる。
 夫が戦死したことになっている百姓女のもとへ兵隊が通って来る。つるみながら「どこかの国のどこかの村でむかし」あんたとつるんでいたと女がもらすのは前世の記憶ではなく、「本源」が蛇の如く延びて来て誰とでも入れ替わるのである。気が触れて戻って来た隣の女がひたすら交合を挑むのにどうにも我慢が出来なくなった信用金庫職員が伊豆半島の月の夜にその女体の上にのしかかっているといつの間にかのしかかっているのが祖父に入れ替わっていてギョッとする。(「美しい夏 キリシマ」「祭りの準備」(黒木和雄))

Thursday, March 03, 2011

碧痕53 眩暈、卒倒、大あくび

53 眩暈、卒倒、大あくび
 ウフィッツィ美術館に隣接するパラッツォ・ヴェッキオの「五百人の間」で記者会見がひらかれていたとき、磯崎新は、ヴァザーリの通俗的な大壁画の裏にはダ・ヴィンチとミケランジェロの消えてしまった競作があったはずだ、と思った瞬間、眩暈に襲われ卒倒する。
 かつてスタンダールも、サンタ・クローチェ寺院で倒れた。それは、マキャヴェリやミケランジェロがここで眠っていると考えた瞬間だった。今でもプランカッチ礼拝堂やウフィッツィ美術館で、卒倒する人がいて、精神病理学はこれを、スタンダール症候群と呼称し、自らの「文化的根源」をのぞいてしまった、その衝撃に触れる。
 内臓や大地、媒体性のように常はその気配を消してそれと知らず使いこなされているが剥き出しになると薄気味悪く脅かしかけるものとしての「文化的根源」に面して、先ず眩暈を以て模写発作が起こり、続いて卒倒を以て別の模写発作が起こったのである。一つは、裂目の覚醒に面しての発作、もう一つは、裂目の眠り込みに面しての発作であり、時として、この二つの模写発作の複合として、大あくびが起こる。