Tuesday, April 26, 2011

碧痕65 気配を絶った機械

65 気配を絶った機械
鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分哉(蕪村)
 ゴーストがかかれば、「私」というものは解かれ、エートスがかかれぱ、「私」というものの位置がいつまでも確定されないということこそは「私」というものの出現である。これは、無我が祟り返すのである。つまり、「私」というものそのものが器官の延長であり、その衝動の一つの解として、蕪村は光であり、「吹き飛ばされてくるくる舞う落葉」に出会ってエネルギーを放出し、気配を絶つ。それが「鳥羽殿へ急ぐ五六騎」に飛躍する。
 蕪村(光)は、気配を絶つ限りで、気配を絶った機械のように、この領土を支配する。器官の延長の衝動は、位置や寿命の安定状態への野心であり、野を吹き分ける物凄い風にかかる、機械の気配である。

Saturday, April 23, 2011

碧痕64 器官の延長の衝動

64 器官の延長の衝動
 ゴーストのかかる具体の、その媒体性は、エートスのかかる擬態の(気配を消した)水準に於いては分割、展開されて、器官の延長であることとして祟り返す。具体はゴーストを映し出す鏡(媒体)であるが、それは、擬態の気配を消した具体としての機械(器官の延長)が、エートスを法則的、歴史的に写し出した形式、命令の一つの解である、というふうに祟り返すのである。出現すると同時に潜伏する衝動が祟り返した、この、器官の延長の衝動は、エートスを代表する形式、命令が機械に潜伏することとしての支配の衝動であるが、擬態の水準に於いて化を、種子(DNA )がその一つの解としての生体に潜伏する、というように、知らず知らず模写している。

Thursday, April 14, 2011

碧痕63 ghost,ethos

63 ghost,ethos
 到達・保存の衝動が擬態を鎧って疚しさとなって潜伏するゴーストの祟り返しとしてのエートス、媒体性が打ち消されてエートスのかかった到達・保存の衝動は法則的、歴史的でしかない。
 予期としてのゴーストがかかることなくして光のどの相も出現しないが、光が眩惑的に別の相を以て現象する、そのことに面することにはエートスがかかっている。探求のエートスが果てしもないのは、ゴーストのかかる(出現すると同時に潜伏する)奥行が、エートスのかかる(隠れていたものが顕れる)奥行に覚醒して、隠れていたものが顕れる効果が解け、しかもこの解除の魅惑(忽光)の源泉がゴーストのかかる奥行ではなくエートスのかかる奥行であるかのように転移修飾してしまうからである。
 光が物質に出会ってエネルギーを渡して消滅する、といった擬態の水準の効果には、エートスがかかっている。ゴーストが素材を間に合わせて、その予期(エネルギーとしての形式、命令)が即興的に具体となって出現すると同時に潜伏する化の水準の効果にはゴーストがかかる。ゴーストは、エネルギーの示現する形式としての光のようなものではなく、光のみならず有りと所有る具体が出現するために潜伏する形式である。しかも疚しさとなって潜伏する支配である。

Monday, April 11, 2011

碧痕62 matter、到達・保存の野心

62 matter、到達・保存の野心
 「長靴を穿いた猫」は、普遍を疑わない歴史的一瞬を、すなわち、鼠の出現を狙い澄まして、飛びかかった。このようにして、普遍を疑う批判も、普遍を疑わない歴史的一瞬を狙う。それは、どんなに普遍を疑っても、歴史的一瞬を代表するエートスに面して疑わない。
 しかし、龍が鼠に化けて出る、その化がその擬態としての模写を解いているのならば批判は追いつかない。「長靴を穿いた猫」の胃袋は鼠(龍)を把捉することも保存も消化もしない。ゴーストがかかって知(支配)が失効しているのである。しかしまた、鼠が鼠や獅子や鸚鵡や蛸の間に法則として出現する龍を代表する歴史的一瞬は、その一瞬が覗いた鼠の、その拡大・劇化に除かれた別の解を悉く(混在ではなく、より小さな魚がより大きな魚の胃袋に順々に呑み込まれているというように)孕んでいて、しかもその順位は入れ替わるのであり、その入れ子状態のために、批判は歴史的一瞬に追いつくたびに胃袋を食い破られてしまう。
 神通の、その擬態、平均化による伝達や、歴史化による伝達の、その法則的、歴史的一瞬にのぞくmatterは、隠れていたものが顕れる効果に包まれた認識の練習であり、到達・保存の野心であり、エートスがかかっている。

Friday, April 08, 2011

碧痕61 神通、零落、連祷

61 神通、零落、連祷
 悟空が花果山に500 年振りで帰還すると、土地は荒れ果てて見る影もなく、猿どもは日々狩り立てられて、火を通される。油で揚げられたり、醤油で煮られたり、塩を振りかけて油炒めにされたり、蒸籠で蒸されたりしている。
 迂闊にも四千年が過ぎ去ったのではない。長寿を鎧った孫悟空が認識される、この突然の帰還は、神通ではなく、神経衰弱である。丸ごと湯気を立てて中華風に調理された猿体を、孫悟空の胃袋はうけつけない。杭に架け、耳、口、鼻を削ぎ、目玉をえぐり出し、陰茎を切り取り、はらわたを出し、生きたまま皮を剥ぐ、といったた図を胃袋がうけつけないとすれば、それは、食材として人体を調理法にそって順次仕込むことが、料理することによって上品に蔽い隠そうとする啖うことの残忍、醜悪、酷薄を暴いてしまうからである。

 供物が食い荒らされているのを灯りで照らし出して鹿力大仙が云う「まるで人が食ったようなしわざだな。皮があるのはちゃんとむいてあるし、種子があるのは吐きだしてある」実は、すぐそばの壇で土人形になりすましてじっと坐している孫悟空、猪八戒、沙悟浄のしわざであるが、羊力大仙が云うには、疑う勿れ、夜となく昼となく経を誦したので天尊が心をうごかし壇から降りて召し上がったのであると。
 ヒトの摂食の習性を観察する勢力がある。孫悟空たちは、500 年振りで認識される、というのではなく、実は被監視状態にある。ヒトじみて「私」というものを鎧う孫悟空たちの覗き穴は、盗まれているのであり、鹿力大仙、羊力大仙は、妖怪変化に正体があることとしての零落を解かれ、ピンぼけがかかっている。

 化は神通、それは認識が追いつかない。その擬態は能所の分業、カーストを促進する知(制圧)と伝達の起源である。それは、跡形もない生命の隠喩性(化)の日常化であり、隠喩というものを親しく手にしてみるとドウシテコンナモノガアルノダロウと訝りたくなるが、何か奇妙な記憶じみて何かの痕跡を留めているのは、化の眩惑性と擬態の説得性とが流れ込んでいるのである。眩惑とは、出現すると同時に潜伏する効果であり、範疇や真偽を以て支配が追いつかず、説得力とは、隠れていたものが顕れる効果であり、支配である。
 鹿力、羊力の木の葉蝶が完璧ならば、すなわち、擬態の気配を消しているのならば、それは支配である。隠れていたものは鹿力、羊力(木の葉)であり、甲羅を経た鹿、羊(木の葉蝶)ではない。隠れていたものが甲羅を経た鹿、羊ならば、すなわち、化けの皮が剥がれた妖怪変化ならば、別の水準の擬態がその気配を消している。擬態の気配を消した空気、つまりそれは、日常性であり、支配である。
 このようにして、擬態の入れ子状態は、平均化に過ぎない法則的到達・保存や歴史的到達・保存に過ぎない本質というものが普遍を疑うこととして、果てしもない擬似奥行として示現する。
 土人形になり澄まして気配を絶つ孫悟空たちの忍び笑いをこらえた気配は、「疑う勿れ」を以て被支配に反転する。忍び笑いをこらえて気配を絶つ優越、そこにいてそこにいない優越が、単に土人形であることを肉附きにして窒息するのである。隠れていたものは甲羅を経た天尊であって、甲羅を経た孫悟空、猪八戒、沙悟浄ではない。しかし、天尊を代表するのも孫悟空を代表するのも、土人形であり、土人形が代表するものは入れ子状態になる。入れ子の順位は(一揆に於いて誰もが入れ替わるように)入れ替わるが、それは、入れ子状態とはもう一つの平均化だからである。
 普遍を疑わない羊力大仙の歴史的一瞥、決断のために、孫悟空はその窃視の器官を延長して甲羅を経た鹿や羊を暴くどころか、土人形の模写能はその擬態の気配を消せぬままに、認識は届かなくなる。
 このようにして、寄せては返す海のように現れて来る妖怪変化、昨日、今日、明日そのものとして三蔵法師一行の通りかかるのを妖怪変化が待ち侘びているのは、紫の煙がエジプトの空に立ちのぼる如くに通りかかり、待ち侘びているのである。

Tuesday, April 05, 2011

碧痕60 木の葉蝶、重力

60 木の葉蝶、重力
 木の葉蝶の、その擬態が完璧であるとすれば、擬態の気配を消しているのであり、木の葉を認知するように能所の分割、カーストを促進している。このことは、木の葉蝶を認識するようにカーストが促進されている場合にも当てはまる。木の葉(ではなく)蝶であることの啓示は、曝露した擬態とは別の水準の擬態の気配を消しているのである。そのようにして新屯も、重力を発見したのであり、その制圧(知)に於ける分業は擬態の気配を消しているのである。重(量ではなく)力であることの発見は、曝露した擬態とは別の水準の擬態の気配を消している限りで法則的、歴史的到達・保存であるが、この発見が忽光に被曝しているのならば、重力が鎧う擬態に面して、その気配が消せないのであり、重力が宙に浮いているのである。

Saturday, April 02, 2011

碧痕59 ヒステリア

59 ヒステリア
 春の海ひねもすのたりのたり哉(蕪村)
 ルーペは霊長して、海辺で嗚咽する因幡の素兎に大国主命が話しかける超声と光と悠久とが届く。春の日に寄せては返す海の、そのスロー・モーションの極としての静止画像は、その感光が打ち消した奥深さを孕んでいるが、虚構の気配を消せないままに寄せては返す海は、法則的にも歴史的にもいつまでも到達・保存しそうにない邪悪な奥深さを剥き出しにする。すなわち、ヒステリア(放浪する子宮)である。
 虚構の気配を消して寄せては返す昨日、今日、明日に分節された日常性が、いつのまにか或いは忽如として、あてどなく、届かなくなる。昨日、今日、明日の平均化としての日常性が鎧う擬態は、化の(出現すると同時に潜伏することの)質料化であるが、この質料化した隠喩性はその気配を消している限りで法則的、歴史的到達・保存(平均化、提喩性)となって祟り返し(つまり、効果を示現し)、しかし前触れもなく、ずっとそうであったかのように、擬態が解けてしまう。擬態に面して、その気配が消せないのである。すなわち、化の、その隠喩性が気配を剥き出しにして、疚しさとなって潜伏していた奥深さに被曝して、光り出す。
 ヒステリア(放浪する起源)は、「神の小さな土地」に酷似している。埋蔵金や鉱脈は、未だ掘られていない「神の小さな土地」につねに移動してしまっている。このはてしなさは、紫の煙がエジプトの空に立ちのぼる如く、孫悟空が暴れる如く、海はひねもす寄せては返す。