61 神通、零落、連祷
悟空が花果山に500 年振りで帰還すると、土地は荒れ果てて見る影もなく、猿どもは日々狩り立てられて、火を通される。油で揚げられたり、醤油で煮られたり、塩を振りかけて油炒めにされたり、蒸籠で蒸されたりしている。
迂闊にも四千年が過ぎ去ったのではない。長寿を鎧った孫悟空が認識される、この突然の帰還は、神通ではなく、神経衰弱である。丸ごと湯気を立てて中華風に調理された猿体を、孫悟空の胃袋はうけつけない。杭に架け、耳、口、鼻を削ぎ、目玉をえぐり出し、陰茎を切り取り、はらわたを出し、生きたまま皮を剥ぐ、といったた図を胃袋がうけつけないとすれば、それは、食材として人体を調理法にそって順次仕込むことが、料理することによって上品に蔽い隠そうとする啖うことの残忍、醜悪、酷薄を暴いてしまうからである。
供物が食い荒らされているのを灯りで照らし出して鹿力大仙が云う「まるで人が食ったようなしわざだな。皮があるのはちゃんとむいてあるし、種子があるのは吐きだしてある」実は、すぐそばの壇で土人形になりすましてじっと坐している孫悟空、猪八戒、沙悟浄のしわざであるが、羊力大仙が云うには、疑う勿れ、夜となく昼となく経を誦したので天尊が心をうごかし壇から降りて召し上がったのであると。
ヒトの摂食の習性を観察する勢力がある。孫悟空たちは、500 年振りで認識される、というのではなく、実は被監視状態にある。ヒトじみて「私」というものを鎧う孫悟空たちの覗き穴は、盗まれているのであり、鹿力大仙、羊力大仙は、妖怪変化に正体があることとしての零落を解かれ、ピンぼけがかかっている。
化は神通、それは認識が追いつかない。その擬態は能所の分業、カーストを促進する知(制圧)と伝達の起源である。それは、跡形もない生命の隠喩性(化)の日常化であり、隠喩というものを親しく手にしてみるとドウシテコンナモノガアルノダロウと訝りたくなるが、何か奇妙な記憶じみて何かの痕跡を留めているのは、化の眩惑性と擬態の説得性とが流れ込んでいるのである。眩惑とは、出現すると同時に潜伏する効果であり、範疇や真偽を以て支配が追いつかず、説得力とは、隠れていたものが顕れる効果であり、支配である。
鹿力、羊力の木の葉蝶が完璧ならば、すなわち、擬態の気配を消しているのならば、それは支配である。隠れていたものは鹿力、羊力(木の葉)であり、甲羅を経た鹿、羊(木の葉蝶)ではない。隠れていたものが甲羅を経た鹿、羊ならば、すなわち、化けの皮が剥がれた妖怪変化ならば、別の水準の擬態がその気配を消している。擬態の気配を消した空気、つまりそれは、日常性であり、支配である。
このようにして、擬態の入れ子状態は、平均化に過ぎない法則的到達・保存や歴史的到達・保存に過ぎない本質というものが普遍を疑うこととして、果てしもない擬似奥行として示現する。
土人形になり澄まして気配を絶つ孫悟空たちの忍び笑いをこらえた気配は、「疑う勿れ」を以て被支配に反転する。忍び笑いをこらえて気配を絶つ優越、そこにいてそこにいない優越が、単に土人形であることを肉附きにして窒息するのである。隠れていたものは甲羅を経た天尊であって、甲羅を経た孫悟空、猪八戒、沙悟浄ではない。しかし、天尊を代表するのも孫悟空を代表するのも、土人形であり、土人形が代表するものは入れ子状態になる。入れ子の順位は(一揆に於いて誰もが入れ替わるように)入れ替わるが、それは、入れ子状態とはもう一つの平均化だからである。
普遍を疑わない羊力大仙の歴史的一瞥、決断のために、孫悟空はその窃視の器官を延長して甲羅を経た鹿や羊を暴くどころか、土人形の模写能はその擬態の気配を消せぬままに、認識は届かなくなる。
このようにして、寄せては返す海のように現れて来る妖怪変化、昨日、今日、明日そのものとして三蔵法師一行の通りかかるのを妖怪変化が待ち侘びているのは、紫の煙がエジプトの空に立ちのぼる如くに通りかかり、待ち侘びているのである。