Thursday, September 29, 2011

碧痕110 Panicの実体、Erosの野心

110 Panicの実体、Erosの野心
 ハリウッドの映画製作は、ジャンルを金型にして大量生産とまでは言わぬまでも色違いのシリーズにする。パニック映画では、
 1 「裏窓」(A.Hitchcock )から覗かれるアパートのように隣り合わせながらも山岳を隔てるが如きいくつかの日常が窃視され、それが合流地点で船のように乗り合わせることになる。
 2 その合流地点に於いて、常はそれと知らず使いこなされている内臓や空気や大地のようなものが剥き出しになり脅かし迫る。日常性の崩壊。しかし、どこでもないことの覚醒や被曝は感光しないので、towering infernoのようにして、何よりも身近で何よりも疎々しいもの、従って逃れようのない地獄のヴォリュームが質料化して臨在、薄気味悪く迫ることになる。
 3 序列の崩壊。単なる逆転ではなく、居合わせた誰もが全体を代表するために、居合わせた人の自乗の数が殺到することになる。
 4 何事もなかったかのように、日常性が曙光のように戻ろうとする。
 殺到と阿鼻叫喚が前駆症状に過ぎないパニックの実体は、被造物であること、従って、パニック映画を製作する衝動は、荘厳を色違いのシリーズで到達・保存しようとする野心、大仏やストーン・ヘンジやゴシック・カテドラル建立を投射的に次元変換しようとする野心である。

Monday, September 26, 2011

碧痕109 頓挫、覚醒、大あくび

109 頓挫、覚醒、大あくび
 中世は固定的で分業はすすんでいないにしても、不断に日常性が脅かされ、法則が頓挫し、歴史が頓挫して、何か惜しいのか、何も惜しくはないのか、神経衰弱と履歴改竄の間に揺らいでいる。
 この揺らぎこそは中世の魅惑でもある。基督暦千年を経過しても続いてしまっていたこの世は何なのか。千年で終末であるとして、その仮のもののこの世は本当にこの世なのか。凍結することを忘れたとでもいうような過冷却の池が実は人知れず凍結の気を練っていたとでもいうように落葉一枚の衝撃で一気に凍結して渡るように、いつでも全貌を顕わそうと力を溜めていたとでもいうように俄然地獄のヴォリュームが迫り上がってあてどとしてのこの世が打ち上げられ、しかしそれは水中から陸上へというように別の媒質に放り出されたのではなく媒質であることの頓挫であり、あてど(では)なくなるのであり、どこでもないことが覚醒する。
 終末を約束する基督暦千年とは、この覚醒であり、この覚醒に面しての模写発作、驚き、懐疑、惚恍、戦慄、笑い、あくびといった痙攣の渾然とした生体反応が、panic である。この覚醒は、猛然と膨張して遠去る宇宙、といった恐喝にやがては(もう一つのミレニアムに於いては)相貌を変える。
 どこでもないことの覚醒(おどろき)に面して、その底なしと底なしが眠り込むのを二重に模写する発作、すなわち大あくびが中世を覆いかけている。それは、流動的で分業が進み徹底して器官を延長する世に覆いかける大あくびを孕んでいて、もう一つの解としての別の宇宙を地獄のヴォリュームとするこの宇宙にこの世が履歴改竄することは、ステンドグラスを通してこの世に天空の光を降ろそうとするゴシック・カテドラルの如くに器官を延長するのである。

Friday, September 23, 2011

碧痕108 地獄のヴォリューム

108 地獄のヴォリューム
 「悪魔」との契約の水準に於いては、「二重の存在」は秘密になっている。というのも、契約の根底は妥当要求の一つとしての誠実であり、擬態であることが秘密である限りで妥当要求は発生するからである。擬態の気配が消えていれば「二重の存在」も気配づかない。擬態の霊の活動は、真も偽も気にならない化を貫く到達・保存の衝動が、まるで孫悟空が身をひと揺すりするように擬態を鎧ってしかも擬態であることが秘密になって、真偽、虚実が気になり出すのである。「魔女」が「悪魔」の息吹にふくれあがっているとすれば、それは、「二重の存在」が満ちているかに見えて、実は、この二重の秘密の気配を鎧っているのであり、「悪魔」が約束するのは擬態の解脱ではなく、模写であり、仮のものの縁生の、その、地獄のヴォリュームに支えられて仮のものではなくなる安らぎ(或いは窒息)であり、身をひと揺すりすると俄然仮のものに連れ戻されて何も惜しくはなく、もうひと揺すりで俄然ヒドラの気配がもう一つのエラー状態に振れて何か惜しい、その、いつまでも満たされない邪悪、メランコリー、懐疑である。
 J.Micheletは、中世を模写を以て要約する。しかし、この有性生殖は、その二つのエラー状態(闇の責めの二つの祟り返し、単性生殖と神経衰弱)との間に振動して、海の波のゆれ動きの如く邪悪であるのを、ガリレオの、デカルトの、フロイトの覗き穴(目の、common senseの、自覚の延長)は、曙光であるかのようにとらえるのである。

Tuesday, September 20, 2011

碧痕107 ユーモアとしてのガリレオ裁判

107 ユーモアとしてのガリレオ裁判
 フロイトの、論駁不能にする「否定」(打ち消されたものの抑圧の解除としての否定)の理論と、科学的理論の果てしもない仮説状態は同根ではないのか?
 科学的態度は、その仮説がもはや維持されなくなった時に傷つかないように配慮されているが、フロイトの指摘に従えば、ユーモアの態度も傷つかないようにするためにである。だじゃれをとれば、それは、或る言葉が仮に聞き分けられ理解され出現するためには打ち消されなければならなかった地獄のヴォリュームの、その一角ですらないかけらが浮かび上がり、縁生の、その裂目に面しての模写発作が概して横隔膜の痙攣というに過ぎないが、だじゃれの通用しない人々にあっては薄気味悪さに顔面がひきつりさえする。矛盾する事実が発見されたために起こる仮説の崩壊も、おかしくもあれば不気味でもあり、何か導かれている、或いは、試されている、といった奇妙な衝撃がある。フロイトの「否定」の理論は、ユーモアというしかない。それは、縁生が打ち消す地獄のヴォリュームの(出現するものが打ち消す隠れたものの)解き放ちに属し、果てしもない。
 ガリレオ、デカルト、フロイトの態度、すなわち、いつまでも満たされない懐疑は、悪夢というよりは、窮極のユーモアすなわち試練の変奏である。

Saturday, September 17, 2011

碧痕106 闇の責め、一滴の露

106 闇の責め、一滴の露
 道成寺の、明治を素材にした一つの解が「雁」(鴎外)である。その互角の誘惑、互角の追跡・遁走は、次のように展開する。待ち伏せ(て追跡す)る女は不意に鳥籠の小鳥を狙う蛇を放って(誘惑し)、通りかかる男は(誘惑される寸前で)不覚に酒屋の小僧を放って蛇退治を任せ(逃れ)る。通りまで出て(追跡する)女が待っていると、しかし男には連れがあり、なおも通りで男が戻って来るのを女は待っているが、戻って来た男たちのマントの下には不忍池で捕えた禁猟の雁が巡邏の眼から隠されていて、巡邏から逃れることが図らずも女(の追跡と誘惑)を躱すことになっている。道成寺の異本の一つで、蛇体を顕わした女の瞋恚の炎に抱き竦められて、鐘の中に隠れた若い修行僧が一滴の露に化り果てる衝撃に照応しているのは、留学のために渡欧してしまう男を代表して、鯖の味噌煮と同様に男の誘惑や遁走の滑稽な口実に使われている食材としての雁を、女の無量の残り惜しさと瞋恚の炎が焼き尽くして、渡る「雁」が音の余韻が曳くことである。
 しかし、この無量の残り惜しさの余韻は、勿体ないというような何か手に余って零れ落ちた思いに微妙に顔つきを変え、その後の女のかけらを追跡調査してしまう。後の鴎外の、「澁江抽斎」の没後にも周辺に追跡調査が及んでいく伝記の、あの、何事もなかったかのような、日常が平らかに修復されている、しかし傷痕も残らないというのではない、ささやかな波立ちを辿るのである。

Wednesday, September 14, 2011

碧痕105 闇の責め、ヒドラの気配

105 闇の責め、ヒドラの気配
 「魔女」に面して異端審問する裁判官を脅かすのは、「二重の存在」(J.Michelet)であるが、「魔女」はその一つの解に過ぎない。「魔女」は悪徳の理想の一つの解であり、「二重の存在」が悪徳の理想と結びつくのは、それが、裁判官を代表するものに打ち消され疚しさとなって潜伏しているものであるからであり、裁判官と「二重の存在」は対立ではないのに、対立しないことを危惧するかのように遠避けられ対立しないではいられないのである。囲炉裏端で「二重の存在」を保存して来た女たちに(「二重の存在」のエコーに)裁判官が残虐の限りを尽くして肉薄せずにはいられないのは、うっかりしていると取り違えてしまいそうなほど瓜二つだからであるが、「魔女」が絶滅したとしても「二重の存在」は消滅しない。
 これは、科学が日常性の基盤である呪術(平均化、単純化)が何処までいけるかの実験に過ぎないのに数式が呪術とは懸け離れているかのように振る舞うのに酷似しているが、日常性は「二重の存在」の擬態であり、日常に「二重の存在」が出現することはない。その出現は日常性が解けることだからである。「魔女」の異端審問が異様な空間であるとすれば、それは、公的な領域には出現するはずもない「魔女」がエコーする phantom circuitだからである。「魔女」は、そこを占拠しているのに、そこは宙に浮いている。
 正義の領域ではないが、それを超絶して系統発生的な闇の責めとしての con-scienceの領域の闖入の、その衝撃は持ち越されて、すなわち半抽象のままに、その漠とした予期(形式)は隠喩の衝動になって蔓植物のように素材を空に手探る。正義は、闇の責め(呼び出し)が擬態としての公的な領域に祟り返しているのであるが、責め苦と分業する。裁判官と「魔女」の異端審問は、こうした責めと責め苦の対い形成の一つの解である。そこでは、被造物の気配が仮のものの(にせものの)何も惜しくはないヒドラの気配として祟り返している。

Sunday, September 11, 2011

碧痕104 華氏(Fahrenheit)451

104 華氏(Fahrenheit)451
 そこでは、本を読む人を摘発し焚書する消防士がゲシュタポの如くに狐憑き状態というよりは、本を読む人こそが狐憑き状態である。本を読む人を代表するのは「自由、孤独、思考」であるかに見えて、実は、監視と密告と摘発を避ける秘密の防衛の極に於いて、本を隠すために本を暗記して本になる、本の媒体であることなのである。
 こうした暗記は遺伝しないだろうから、暗記して本になる人を次々と複製しなければならない。この複製は遺伝のような効果に包まれる。異本(の人)が出現し、異本と異本との間に種が出現しては逃れ去るのである。一子相伝であるにしても事態は変わらない。稗田阿礼の古事記は、そうした最後の異本、火の鳥の如きものである。ところが古事記となることによって、再読と再読の間に出現しては逃れ去る古事記は、証明できない全体に向かって膨れ上がっていくことになる。

Thursday, September 08, 2011

碧痕103 アンネ・フランクの家族の冒険

103 アンネ・フランクの家族の冒険
 黄色い星を印につけられたアンネ・フランクの家族の冒険、この世から消える冒険は、ダビデの星の媒体が基数と序数の間に振動するように隠れる神経衰弱の冒険であり、試練にならないように、不断に神経衰弱の日常が、スバイス工場の屋根裏部屋で微調整される。階下へのこそ泥の侵入や夜警の跫音も、恐喝なのかと疑わずにはいられない倉庫番の賃上げ要求や近隣での密告も摘発もそのように消化される。(箱の中からは、不吉、不幸、災厄、悪疫が次々と飛び出し、最後に何よりも邪悪なものが残されていた。移動する「神の小さな土地」にも「ペスト」の包囲を凌ぐ反復強迫にも相貌を変える、海の波のゆれ動きの如き、ひかりである。)
 余計なものとしての「ユダヤ人」の媒体にならないように、「ユダヤ人」の素材としてのユダヤ人とダビデの星の媒体としてのユダヤ人との間にも振動しながら、「ユダヤ人」が感染しないように隠れているのにいつの間にか「ユダヤ人」に感染してこの世から消えていることを、屋根裏部屋の窓の高さに群がるカモメが告知する、奇妙な隔離である。

Monday, September 05, 2011

碧痕102 大衆であることの振動

102 大衆であることの振動
 戦後の個人主義の風潮を後押ししたものは、見かけでは、全体主義へ大きく振れたことの反動であるが、実は、闇市の時代の食糧調達の極端な困難から来る最終的な分裂である。そもそも全体主義的なものは(乾燥の危機に於いてアメーバというアメーバが結集して蛞蝓のようにうねり、のたうって移動することに酷似して)飢餓の無明に於いては、身を寄せ合って一つになる熱伝導がひかりの埋め合わせをする。しかし、極端に平均化された大衆は、実は、一世代が全世代を代表し、要素が起源を代表する単純化に極端に振れて平均化から(大衆であることから)藻掻き出ようとしていたのに、不覚にも熱平衡に連れ戻されてしまっていた。その動顛と、始まりのためのひかりとしての怒りが、食糧調達のための分裂である。
 食糧調達の道としての大衆であること、飢餓の無明に於いて、熱平衡と分裂の二極の間に振動する、この、大衆であることは、昭和34年の「茹で卵をつるりと剥いたような」正田美智子に顕れた白羽の矢の二重性に面して、生贄であることの記憶を喪失しているかに見えるが、ビートルズの(誰であるかの区別なくしかも特別な)視線に失神するような玉砕は祟り返している。やがて皇太子妃の、その人柱であることの相貌は能面の形相に変わり果てていくが、それは、皇太子妃の顔に履歴改竄の形相となって玉砕性が感染・転移したのである。

Friday, September 02, 2011

碧痕101 尾としての生首

101 尾としての生首
 国家神道に於いては、器官の延長に過ぎないこと(媒体性)が天皇にこそ顕れ、こうした本源を分が模写することを通して分はどの分とも入れ替わるだけでなく、人口の自乗が殺到することになる。つまり、国家神道は証明できない全体に向かって膨張する一揆の玉砕性を孕むことになる。「天地初発の時は今にあり」、本源はどこにでもある。命令系統は不断に履歴改竄をする。従って、昭和天皇がマッカーサーとの会見で、独り責めを負って生首を差し出そうとしたことは国家神道に違背するのである。一揆の終息のために首謀者が仕立てられるように、津々浦々に散らばった種子を昭和天皇の器官の延長とすることは国家神道の玉砕性を解消する。国家神道は始原を打ち消す。人間の姿を現わした昭和天皇は、実は、始まりの出現なのであり、一揆の生首である首謀者が切り離されても一揆の胴体に繰り返し生首が生え出るように、思ったほど小男ではないが小男には違いない姿を生首として差し出した昭和天皇は、残余の胴体(器官の延長としての種子)に再生する。首実検として曝されたあの写真の昭和天皇は、国体を代表すると同時に代表しない仮の力としての影武者振りなのである。