碧痕146 究極のエチカ
146 究極のエチカ
「ある運命に関して」法則的、歴史的なものの裏をかく目配せとして現れた河口の精がゾフィアの究極のエチカの講義に出席していて、ゾフィアの住む集合住宅には「ある選択に関して」誤診したのか嘘をついたのか区別がつかない医師も住む。(Dekalog8「ある過去に関する物語」Krzysztof Kieslowski)
1943年2月、ワルシャワ、ノアコフスキ区、(目配せをするように)外出禁止の時刻が迫っていた。ユダヤ人の少女エルジュビエタは、匿ってくれるという人が条件とした洗礼のために神父のもとへ気が急いていたが、間に入っていたゾフィア(40年前のゾフィア)はなぜか躊躇して「神に嘘はつけない」とさえ弁解して見捨ててしまう(と40年前のエルジュビエタには思えた)。プラガ区の別の人に匿われることになって生き延びたエルジュビエタは、アメリカから40年振りで(漏電するように)ワルシャワに戻り、ゾフィアの著作を残らず翻訳していた関心からもゾフィアの究極のエチカを聴講することになり、その講義のなりゆきで(実は究極のエチカはエルジュビエタをアースしていないために)40年前に降りかかった出来事を、余りにも根拠のない具体の極を(同じ部屋にいた男がずっと手をポケットにいれていたこと、出された磁器の茶碗が揃いのものではなかったこと、などの惚けきった細部を)突きつけ、問い詰め、ゾフィアの顔を探る。
ゾフィアが1943年2月に住んでいた場所、ワルシャワ、ノアコフスキ区、人が住み替わって隔世の気配と、囁きも叫びも聾として吸い込むぶ厚い空虚が降り積もる場所にエルジュビエタを連れていったゾフィアは、そこでエルジュビエタを見失い、この、エルジュビエタの出そうな場所に、総身の毛も太る。
ゾフィアはうちあける。実は、エルジュビエタを匿うことになっていた人はゲシュタポに通じている、という情報を入手していて、それでは地下組織の運動が筒抜けになり潰滅しかねない、そのことを恐れた。ところが後に、その情報が偽りであることが分かったが、それは、組織がその人を処刑する寸前でのことであった。
この思いがけない告白が真実の気配に包まれるとしても、その説得は、単に隠れていたものが顕れる効果に過ぎなく、嘘ではないとはどうにも証明できない。その真偽は、エルジュビエタの渾身の選択になる。しかもそれは、自由とは別の源泉から届く。それが和解(失神発作)であるのは、救うものと救われるものとに別れるカーストが解けて、救われるものの、その自由の被剥奪こそが救うものを証明する、その、渾身の胴震い(被造物の胴震い)に面してである。
「ある運命に関して」法則的、歴史的なものの裏をかく目配せとして現れた河口の精がゾフィアの究極のエチカの講義に出席していて、ゾフィアの住む集合住宅には「ある選択に関して」誤診したのか嘘をついたのか区別がつかない医師も住む。(Dekalog8「ある過去に関する物語」Krzysztof Kieslowski)
1943年2月、ワルシャワ、ノアコフスキ区、(目配せをするように)外出禁止の時刻が迫っていた。ユダヤ人の少女エルジュビエタは、匿ってくれるという人が条件とした洗礼のために神父のもとへ気が急いていたが、間に入っていたゾフィア(40年前のゾフィア)はなぜか躊躇して「神に嘘はつけない」とさえ弁解して見捨ててしまう(と40年前のエルジュビエタには思えた)。プラガ区の別の人に匿われることになって生き延びたエルジュビエタは、アメリカから40年振りで(漏電するように)ワルシャワに戻り、ゾフィアの著作を残らず翻訳していた関心からもゾフィアの究極のエチカを聴講することになり、その講義のなりゆきで(実は究極のエチカはエルジュビエタをアースしていないために)40年前に降りかかった出来事を、余りにも根拠のない具体の極を(同じ部屋にいた男がずっと手をポケットにいれていたこと、出された磁器の茶碗が揃いのものではなかったこと、などの惚けきった細部を)突きつけ、問い詰め、ゾフィアの顔を探る。
ゾフィアが1943年2月に住んでいた場所、ワルシャワ、ノアコフスキ区、人が住み替わって隔世の気配と、囁きも叫びも聾として吸い込むぶ厚い空虚が降り積もる場所にエルジュビエタを連れていったゾフィアは、そこでエルジュビエタを見失い、この、エルジュビエタの出そうな場所に、総身の毛も太る。
ゾフィアはうちあける。実は、エルジュビエタを匿うことになっていた人はゲシュタポに通じている、という情報を入手していて、それでは地下組織の運動が筒抜けになり潰滅しかねない、そのことを恐れた。ところが後に、その情報が偽りであることが分かったが、それは、組織がその人を処刑する寸前でのことであった。
この思いがけない告白が真実の気配に包まれるとしても、その説得は、単に隠れていたものが顕れる効果に過ぎなく、嘘ではないとはどうにも証明できない。その真偽は、エルジュビエタの渾身の選択になる。しかもそれは、自由とは別の源泉から届く。それが和解(失神発作)であるのは、救うものと救われるものとに別れるカーストが解けて、救われるものの、その自由の被剥奪こそが救うものを証明する、その、渾身の胴震い(被造物の胴震い)に面してである。


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