Friday, March 02, 2012

碧痕160 眼状紋の示現

160 眼状紋の示現
 アンヌは、俳優として撮影に入っている映画(それは、Collector という標題になりそうということなのだが)その映画そのままではないにしても矛盾しない範囲で餌食になる、そのような目に遇う。メトロでアラブ系の若者にからまれるのであるが、巻き込まれまいとする乗客のばらばらの意志・共謀が突如アンヌを孤島に置き去りにしてしまう。(「Code Unknown」M.Heneke)
 しかし、アンヌを襲ったのは孤独ではなく、身を隠していたいのに隠れない、そのことが夢のように(つまり、そのことが形式であると同時に意味であるように、そのために意味不明に)眼状紋と化して脅かしたのである。
 演技として漠として抽象していた被展翅の状態が現実にここに、しかもなお嘘じみて(擬態の気配を消せないままに)降りかかっている。奇妙なことに、アンヌが涙を抑え切れないのは、不随意ながら擬態の気配を消すためである。
 「Funny Games U.S.」(M.Heneke)で姿を現わした親子三人の家族に示現した、その眼状紋に被曝するのが、その家族なのか我々なのか区別がつかないとすれば、それは、擬態の気配が消せないでいるからである。演技の記録としての映画に面してその記録性が頓挫して過ぎ去る決断が宙に浮いているのであり、親子三人にgameへの呼び出しを啖わせる若者が我々に不意に向き直って(我々をたじろがせながら)演技として何かを問いかけるとしても我々は映画に連れ戻されるとは限らない。というのも、若者は自らの鏡像に向かって問いかけていないとは決断しきれないからである。映画を限界づける枠組が崩れ、カメラ・アイの、その視座は混乱しきっている。
 身を隠していたいのに隠れない孤絶を襲う猛威は、白い手袋をはめた若者が4個の卵を分けてもらいに訪れることから始まるが、その暴力、拷問(選択の強制)は小気味いいぐらいに覿面に決まり、家族の自由、孤独、思考を奪っていく。それは、家族が被曝する眼状紋が家族の巻き込まれたgameそのものに変換され、引き延ばされているとも圧縮されているともつかない。家族の苦悶は、虚構の気配を消してこのgameの底なし沼から脱け出そうと藻掻くと現実が浮かび上がって来るどころか、現実が解けてしまい、それならばそれで元に戻せそうなものなのに何かが頑固で後戻りしないことである。何かこれは、ずっと身につけている事態なのにずっと目を背けている、というふうであり、否応ない何かの、ふざけきった要約か、滑稽なぐらいむごたらしいparaphraseなのである。
 この、選択の強制を模写するgameは、「ローズマリーの赤ちゃん」(R.Polanski)に於いて、陰謀の気配として示現した眼状紋のもう一つの示現である。
 ところで、二人組の若者も主宰するgameから脱け出せない。果てしもないgameのための生贄の蒐索と、暴れることへ岐れた盲目の(それと知らぬ)祈り、この狼狽の効果、転移、もしかして至福は何処まで行けるか。

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