Thursday, March 08, 2012

碧痕162 醜いシューベルト

162 醜いシューベルト
 どの徳が、例えば嘘つきと正直とどちらが富に至る道かは偏に選択、決断にかかっている。というのも、真偽が気にかかる擬態の水準に於いて、媒体であることの禁止や二重性の禁止から正直が由来するからである。その根底は擬態の衝動であり、擬態をそれと知らず使いこなす技術である。
 藁しべ長者は、その長者に至る道で、正直に、素直に、かつ親切に決断し続けているかに見えるが、勤勉や忍耐などの徳に訴えていないし、選択、決断しているかに見えて実は神託の媒体である。その道は徳の実践ではなく、不断の危機と岐路に於いて、導かれている。それは、フリークの道である。
 演奏の情熱が浮かばれないままに、技術に片寄りがちな弟子に厳しい叱責となって捌けてしまう女性ピアニスト、何かもう遅すぎるのであるが、演奏会や称賛、期待(母と娘(犠牲))、教授と弟子といった分業と制度の、その共謀(ゲーム)の器官の延長として、餌食を蒐索しつつ教授を担っているピアニストが、ずっと身につけている事態なのに目を背けている、あの眼状紋は、シューベルトを演奏する情熱を通して(人知れず)シューベルトに転移している。(「ピアニスト」(M.Heneke))
 シューベルトを証明するための生贄であることとして転移してしまっている「醜いシューベルト」、この教理を持て余す教授の、その支配と被支配の分業・共謀が、期待の共謀(母と娘(犠牲))や誘惑の共謀(ナットとボルト)に変換されても、眼状紋は過ぎ去らない。教授が不覚にも模索して来たのは、自身を写体にして、身を隠していたいのに隠れない孤絶(眼状紋)を発作的に模写することである。すなわち、弟子に指図して、教授が裸にひん剥かれ、打擲され、手足を後ろで緊縛される、隣室では母が耳を欹てている、というふうに写された強迫的な分節である。しかし、こうしたparaphraseを以てしても眼状紋は過ぎ去らない。それは、月が満ち欠ける如く(しかし徐々にではなく唐突に)皮膚に沈んだり浮かんだりする刺青の如く、身体に転移、感染するというふうなのである。
 この夢想あるいは実践は、精々変態として寛されるか、フリークの、その二重性・欠如・過剰としてか分類されない。それは生きられない道であり、生きられる技術(徳)であるのならば、それはフリークではない。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home