碧痕200 ミステリの祖述
200 ミステリの祖述
「珠子の場合、その思い出し方は、奇妙なものだった。というのは、彼女の記憶の中には、嘗て自分の生命を救ってくれた青年の顔形が、はじめから全然存在しないのであった。いや、存在はしているのかもしれないが、濃い煙のように、一つの感じとしてくすぶっているだけで、まだ目や鼻や口を備えた顔として存在したことは一ぺんもなかった。それでも珠子は、もし自分がその青年に出会えば、必ず見分けができるという自信があった」(「人生」石坂洋次郎)
こうしたunlearn の運動は、個体発生的であれ系統発生的であれ、模写としての抽象が擬態を解くこと、化である。初めて囀ろうとするウグイスは、その、喉元まで上り詰めて来ている衝動が「濃い煙のように、一つの感じとしてくすぶって」いて、具体となって化けて出ない限り、ああこれだったのだ、というように解明されないが、その、くすぶる一つの感じ(予期)が仕合わせの黙契なのである。
魚雷に沈められた船から海に逃れた珠子は、もう一人も乗せられないボートにしがみついていた後で、その青年と入れ替わることになる。青年に身代わりであることが顕れたために珠子はそのことが(身代わりであることが)度忘れ状態にある。ところが、珠子に覗き穴を盗まれていた青年が実は珠子こそは身代わりだったのだと告白して、身代わりであることの責めを内向と外向に分割する。この互角の責めが、程度として内向に傾けば犯人が逼るスリラーに、外向に傾けば犯人を追い詰める犯人探しの話に分岐する。
嫉妬(瞋恚)が、珠子の婚約者にして青年の(青年が騙そうとしていた(と青年が先の告白に保険をかけるように白状する))取引相手でもある渡辺に感染転移している。珠子と渡辺の間柄は、婚姻色が顕れているというよりも、なごり惜しさと瞋恚の分業であり、珠子が青年に追いつくためのルーペであり、他の誰も聞き取れない疚しさの盗聴器である。珠子には、実は珠子こそが身代わりであることが「濃い煙のように、一つの感じとしてくすぶって」いたのである。
ミステリの祖述は、犯人を探すものが実は犯人であること(オイディプス的なもの)に先立って、身代わりを探すものが実は身代わりであることである。


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