碧痕212 贋の悔恨、贋の追想
212 贋の悔恨、贋の追想
J.J.Reasouの「告白」は、何もかもが意味深く隅々盗聴された追跡と陰謀の気配に包囲され、個別化と一般化が両極端に走っているために現実が(訂正し得る曖昧性に守られているのではなく)訂正不能の擬似奥行に嵌まり込んで、身を隠していたいのに隠れなく脅かされているのであるが、「仮面の告白」(三島由紀夫)は、「私はいつも嘘つきである」と告白する仮(にせ)の告白であり、「私」というものが虚構であることの秘密に中毒した人形振りの告白であるからには、いくら告白を更新して演技に見せかけようとしても、その告白が「私」に属するとはもはや証明できない無限の後退の、その擬似奥行から脱け出せない。
この、部分が全体を代表する擬態(呪術)をそれと知らず使いこなせない(すなわち擬態の気配を消せない)貧血症が模写するのは、人形振りの「自涜」ではなく、「罪に先立つ悔恨」と報告されている贋の悔恨であるが、それは、何もしていないのに約束の気配がする思いがけない意味深さが人形振りの思いがけない罪深さに陰っているのである。何もしていないのに、という譲歩は、この告白が虚構の気配を消した「私」のものであるのに、打ち消された虚構の気配が疾しさとなってこの「私」の蔭(場所・意味)になる、その蔭が氾濫して、この告白が他の誰かのものであるかのように何処デモナイ意味(誰デモナイ空虚)に被曝する。
この譲歩の含蓄は、贋の追想の被曝と変わらない。そもそも過ぎることは今が時間を代表する呪術であるが、過ぎているのに場所があふれ出して、場所を占めることとしての出来事の限界づけが頓挫して何も起こらないのである。何も起こっていないのに、そのこと(あふれ出した場所)は過ぎ、今を主張しているのに、何処デモナイ空虚が覆いかけて約束の気配と区別がつかない。


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