碧痕224 被誘惑状態
224 被誘惑状態
原初の禁止に逆らう被誘惑状態が、寿命で埋め合わせられるのか。そうではなく、寿命も被誘惑状態であって罰ではなく、寿命を鎧うことは罪を被るのであり、一回性や「私」というものこそは「贖罪」の根拠である。しかし「贖罪」にも拘わらず「堕落」(地上)は、慣性の如く残されるかに見える。つまり、「贖罪」とは、出来事ではなく、地上が出来事の占める場所ではなくなること、何モ変ワッテイナイノニ取リ替エラレテシマッテイル、というような秘儀である。
これは、法蔵菩薩が、人・天悉く寿命に限量がある限り「正覚」を得ない、その決意と願の収斂に通底する。「贖罪」も「正覚」も場所を占めない。
寿命は止めどもない落下の衝動であるが、それに逆らう衝動が潜伏していて、その矛盾が収斂して張力のようなものになる。この張力が地上のものの表面としての寿命であり、被誘惑状態であり、この被誘惑状態が解けることが、「贖罪」である。隠喩としての水は擬態的で、隠喩としての地下水は媒体的であるが、「贖罪」とは水が地下水に変わるようなことである。魔法ガ解ケル、これは「贖罪」のparaphraseであるが、そこでは逆に地下水が水に変わる。被誘惑状態が擬態性ではなく媒体性に逆転してしまっているのである。
異教的な魔法の被誘惑状態が擬態性ではないのに洗礼しなければならないとすれば、それは錯乱である。「贖罪」と魔法は、秘儀として通底している。ところが、魔法ニカカッテイル方ではなく、魔法ガ解ケル方が洗礼的に思えてしまうのである。


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