碧痕226 出来事とは何か違う
226 出来事とは何か違う
130 億年の深みを130 億年の時間を犠牲にしてガラス張りの床越しに17番目の素粒子を覗く、その、唐突に取っ掛かりがなくなる危うい高所で、四つん這いになるようにして先祖返りするなら、それは、手放しの二足歩行や異教的なものが「贖罪」の受容を通して促進した器官の延長、光明としての器官の延長の頓挫である。
しかしそれは、認識の魔法が解けることが救済なのではなく、存在の魔法が解けることが救済であるように逆転しているためにこそ起こる一過性の麻痺、目舞いのようなものである。
Augstinus は告白の人形振りを受容するが、性器の蠢動の不随意性は受容しない。人形振りの告白も不随意の性器の蠢きも認識の魔法が解けることに属するのであるが、こうした差別は、奇蹟が救済なのか出来事なのかの、その差異である。
ヒッポやカルタゴで僅か二年の間に70件もの奇蹟的治癒が起こったことをAugstinus は標本として公文書に克明に保存している。救済としてではなく、出来事として扱っているのである。しかし、場所を占めるとしても70件もの報告は却って出来事であることを失効させ、場所を占められずにうわさのように漂っている。つまり、救済としても出来事としても受容できるのである。同じようにして、星辰の配列も好色も130 億年の好奇心も、大きな顔が覆うようにも場所を占めるようにも振れる。出来事とは何か違う「救済」と出来事の間に、あるいは、認識とは何か違う到達・保存としての存在の魔法と認識の魔法の間に、振動するのである。


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