碧痕257 二重人格性のガラス化
257 二重人格性のガラス化
最終状態では限界も位置も本質もおかされる。そうした最終状態が迫るようにしばしば映画は、重波(しきなみ)が打ち寄せるにまかせる。例えば、惨状に生い立ちながらも集団就職で上京した「裸の十九才」(新藤兼人)が連続射殺事件を起こして追い詰められていく、その地の果てに聳え立つ重波である。この最終状態の断面も窃視性であるが、就中、追い詰められ遡上する19才が名古屋に現れ、縫い子の見習いをしている妹を洋裁店のウィンドー越しに、次元も距離も縮める(しかし、致命的に届かない)ズーム・アップである。
このズーム・アップの極に於いて覗き穴は盗まれ、個別化と一般化が両極端に走るために、不断に中間突破するための連続性が崩れて現実が訂正不能になる。つまり、それは現実ではなく、抜け出せない擬似奥行である。同じようにして、「玉ノ井」の、その「ラビリント」は入り組んだ路地の集積ではなく、「私」の窃視が韜晦したままにガラス化する(透明になる)のである。


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