Tuesday, February 28, 2012

碧痕159 ブロードウェイになる

159 ブロードウェイになる
 ブロードウェイになること、大都会になること、千の声帯千の手足千の思考を映し出す媒体であること、それがどうして「自我の発見」なのか。(「南回帰線」H.Miller)
 石合戦に加わって9歳の少年を殺してしまった(と思い込んでいる)7歳の夏の、その供犠を通して、暗黙、絶対の恵みとしてキャロライン叔母にかしづかれ顕現した「ライ麦パン」の至福は、佝傴の小怪物がカテドラルを守護するように動き回る小さな機関車にかしづかれ地下の静寂にまどろんでいる黄金と、どう違うのか。
 器官の延長としての分業は、供犠や掠奪を放棄すると狼狽の効果として勤勉に齧りつく。それは、遠隔、複雑に過ぎる分業を見透せないまでもせめて分業が機能するようにまじなう如くである。勤勉は呪術なのである。供犠と勤勉の差異は呪術としての約束の形態の差に過ぎない。
 約束というのは何ともたよりないものであるが、それは、誠実というものが何とも危うげなものだからである。自我の発見は本当かどうかが気になるようになる孤独の発見であるが、誠実というものは精々我を張る程度でしかなく、法則的にも歴史的にも寿命を鎧っていて不随意に擬態の気配を消している限り頑張るのである。媒質としての大都会が出来事として出現することもこのように頑張るのであり、孤独の発見であり、しかし大都会がポンペイの大気に被曝するような孤独の極に於いては、
孤独に面してそのことが脅かされ、この極端に私的な懐疑に面しての狼狽の効果から、M氏は不覚にも「無我」を「自我の発見」とか「真の孤独」とか叫んでしまう。これは、反語でも錯誤でもなく、頭を掻くようなものである。
 ところで、暗黙、絶対の恵みとしての「ライ麦パン」の至福も、この、身を隠したいのに隠れない「無我」と区別がつかない。何か脅かされているのである。

Saturday, February 25, 2012

碧痕158 転移としての身隠れ、身曝し

158 転移としての身隠れ、身曝し
 「エジプトで見た、紫の煙が立ち昇る」如き祈りと、暴れる祈りと、つまり、届くことを模写する祈りと、届かなさを模写する祈りとがあるのか。そうではなく、祈りは届かなさを模写し、立ち昇ってかすれ果てるか、あてどなく暴れるか、に岐れるのである。まるで狐を叩き出そうとするかの如く(水の中で力を振おうとしても何か力が入らずに空で)打擲する、そのような届かなさも祈りの如くである。
 身を隠していたいのに隠れないので、目を瞑って身を隠す、というのではなく目を瞑って身を曝す、というようにその後のジョルジュ・ローラン(「Hidden」M.Heneke)は生きて来た。その後とは、父が養子にしたアルジェリア人ハシェッドの息子マジッドを嘘の告げ口で追い出してしまった6歳のある日がいつまでも(しかし不省のままに)半ば過ぎ去らないでいる、その後であるが、TVを通して身を曝したジョルジュの、ランボーがどうのこうのと知ったかぶった姿は、底辺を這いつくばって来たマジッドには、内向する責めのひとかけらの気配もない(猫を被った)姿に映る。異種の鳥の巣に産みつけられたカッコウの雛が異種の鳥の雛や卵を巣から蹴落として生き抜こうとする、その逆の排除の場合なのか、何処からともない実体のない監視に目を瞑って身を曝すといった転移(狼狽の効果)なのか、つまり、責めが外部から(実体として)やって来るのを(祈る如く)ずっと待っていたとでもいうのか。
 一旦この世に嘘が忍び込むと何もかも嘘でないとは証明できない空気をことさらに送り込むために、隠しカメラで撮影されたビデオテープが繰り返し届けられる。それは、身を隠していたいのに隠れないことをことさらに突きつけて来るに過ぎないが、しかし眼状紋の示現のように不意をつくのである。

Thursday, February 23, 2012

碧痕157 不在根音フィルモア

157 不在根音フィルモア
 錬成:フランスは彼らの黄金を、地下深く、水のしみこまぬ部屋のなかにかくしている。この地下室や通路を小さな機関車が走り回っている。深い、すこしも乱されることのない静寂のなかに黄金が摂氏17と4分の1の温度でまどろんでいる。一軍隊が46日と37時間働いても、この地下室に沈んでいる黄金を勘定しきれない。80日間もちこたえ得る食糧の貯蔵があり、積み上げた金塊の上部には湖水があって、高性能の爆薬に耐え得る。黄金は、ますます眼に見えなくなる傾向がある。
 「北回帰線」の如きカデンツァは、別の惑星の大気に被曝する傾向がある。フィルモアは、この被曝を地下の至福の静寂で防衛する。その地下が鎧う耐性は、巡回する産業と勤勉そのものである小さな機関車に守護されている。これは、「北回帰線」の、そのカデンツァに不在しているが潜伏している根音が、思いがけなく、フィルモアの声帯を通して掬い上げられているのである。
 M氏は、このまどろむ黄金、走り回る機関車、おかしがたい湖水に面して狼狽する。それは、「北回帰線」が精々気を吐いて打ち消し、振り切ろうとした清教徒的な世俗性の核心が、こんなパリの片隅にひっそり培養され、錬成されてドンぴしゃに響いて来たからである。

Monday, February 20, 2012

碧痕156 狼狽

156 狼狽
 狼狽是両物、狽前足絶短、毎行、常駕於狼腿上、狽失狼則不能活、狽不能活則狼不能動
 狽の気配が消える、それが狼の運動(或いは静止)である。狼に狽の気配が消えない(狽がかかる)乖離に面して、その模写発作を狼狽が代表するとして、狼狽するのは狽ではない。
 狼(狽)は通過するのではなく、狼の通過は擬態であるが、それは野心なのか、狼狽の効果なのか。狽の気配の消えた狼は、その通過が擬態であることを知らない。

Friday, February 17, 2012

碧痕155 狼狽の効果

155 狼狽の効果
 白い洗剤の泡で白色雑音が満ちた車のフロント・ガラスを通して、やがてDO NOT BRAKEの表示、WELCOME TO AUSTRALIAの看板が浮かび上がってくる。日常は砂嵐のモニターに浮かび上がって来るかのように虚構の気配が消せていない。(The Seventh Continent(Michael Haneke)) 奇妙な親子心中事件として処理される破壊は何を、何処を目指したのか。オーストリアでもオーストラリア大陸でもない何か別天地であるにしても、反語というものを学んだ少女エヴァにとっては別天地への旅行の決意も同意も反語的で、二重性の禁止としてのmoral が頓挫している。しかし、虚構の気配が消えたりもする。電話局から係員が調査に訪れて来たり、熱帯魚の泳ぐ大きな水槽を取り返しのつかないしかたで破壊してしまって、狐憑き状態と自由の間で揺らぐのである。
 この揺らぎは、「Benny's Video」( M.Heneke)に於いて、ボスニアの内戦で市民が誰であるかの区別なく狙撃される光景や、豚が強引に屠殺される瞬間や、嘘のように少女を殺害してしまう場面を、極端に私的になるまで目を延長したカメラ・アイが覗き込む、その覗き穴を実体のない監視カメラが潰してしまう(つまり、何処からともなく覗かれている)ために、その映像の歴史的到達・保存と、そのエラー状態の間に(アブラハム的な度忘れが祟り返しながら)転位、変形する。
 エヴァは学校で目が見えなくなる。何か裂目、それが咄嗟に見えないようにする失明発作というより、身を隠していたいのに隠れないので目を瞑って見えないことにする奇計、或いは、見えない訴えを反語的に読み解くように促す反応の実験、反語的な空気の練習である。この空気は、二重性の禁止、嘘の禁止にも拘わらずエヴァが世に棲む日々に侵入、おかしている。
 moral から逸脱しまいとすればするほど、この反語的な空気は鼻につき、とりわけ祈りの時はその飽和状態で、しかし、この空気をそれと知らず呼吸できないのは深刻なエラーである。そもそも目を瞑らない祈りの時があるだろうか。身を隠していたいのに隠れないので目を瞑って身を隠すというような転移(埋め合わせ)は愚鈍でも滑稽でもなく、狼狽の効果であるとしても頭を掻く身振りのように何か洒落のめしていて、何か自然である。
 エヴァが、目が見えないなどと嘘をついたという学校からの苦情に母アンナから横っ面を張られたのは実験と練習の頓挫というより、もはや何もかも反語的でないとはどうにも証明できないことを学んだのである。見えるとも見えず、叱れども叱ってはいない、悼むのは癒すのであり、打ち消しても打ち消してはいない。法則的、歴史的到達・保存としての世界は自然(化)を潔しとしない、それは一貫性を欠くからであるが、世界を貫くはずのmoral は擬態である。しかし擬態の気配を消す限りでmoral であり、擬態の気配が消せないのはエラーであり、日常は不意に日常性を解く。
 ゲオルク、アンナ、エヴァが組成する家族は、厭世的なのではなく、地続いている神秘を抑えようとする。エヴァに嘘が顕れたので横っ面を張るように、世に棲む日々が擬態の気配を消せないでいるので日常の媒質として取り巻く家具など法則的なもの歴史的なものを破壊しまくる。この破壊は、即身成仏が成仏を証明しないように、肉薄しようとして届かない何か(半解脱)の目印に過ぎなく、届かなさを模写する祈りのようなものである。極端に私的なのに隠れない何かがピンぼけで家族を襲ったが、その目印は精々、何か特殊で風変わりな信仰でも作用したことの異様な痕跡として片づけられる。
 一方、ベニーの日常は着実で動揺がないかに見える。そこでは何もかもが着々と監視カメラを通して様々な映像に単純化され、均され、制圧されるかに見える。しかし、ボスニアの殺戮も豚の屠殺も少女の殺害も差別がないために神経衰弱を免れているにしても、どの映像も発作的に世界を代表して他のどんな映像とも入れ替わる。ベニーの天地は、この世に属さない別天地なのである。
 ベニーの映像の蒐索は、幸福感の約束としての豚の屠殺から屈折、転移、変形して、ボスニアの民族洗浄、豚同然の少女致死も含む出来事や光景の、矢継ぎ早な単純化、標本化、消化の習癖に過ぎないが、幸福感の約束の遠い谺であり、この習癖は、強靭な爪や顎が捕えた獲物が口唇から胃袋、肛門へ漸次送り込まれる蠕動の、その霊を映し出す媒体である。
 しかも、この蒐索のためにカメラを銃として駆使するように、ベニーは、嘘のように屠殺銃で少女を「撮影」してしまうが、展翅もされなければ過ぎ去りもしないことに狼狽して、何度も「撮影」してしまう。この狼狽は、他の誰かに降りかかったかのように乖離した半抽象の出来事を反芻してしまう。
 ベニーの暗い部屋、獰猛に何もかも均して消化してしまおうとする胃袋は、「北回帰線」(Henry Miller)が報告している校正係の部屋の高み、絶え間ない災厄と瘴気の泥沼、地震、爆発、疫病、暴動、衝突、飢饉、洪水、大暴落、大虐殺等々にコンマ、セミコロン、ハイフン、ピリオド、括弧、感嘆符等々の句読点、記号をつけて「世界をすぐ鼻の下」で支配し、災厄に対して完璧な予防接種と免疫の状態、世界の終わりに面したとしても超然とした、その虚空の高みに酷似している。しばしばベニーは高所から降りて来て身を卑くして映像に乗り込む。「北回帰線」が沸騰、猥雑にふくれ上がった下水溝渠に流れ込むようにベニーの下降と覗き穴の被剥奪は、しかし実は高々と(様々な違いを均して)遠ざかるカデンツァなのである。

Tuesday, February 14, 2012

碧痕154 空の発動、発動の効果

154 空の発動、発動の効果
 擬態としての日常性が打ち消している衝動、疚しさとなって潜伏している衝動、それが漠として良心と呼ばれる責めである。アルツハイマー的なものは、法則的にも歴史的にも到達・保存の関心が数も程度も減衰して、その減衰、除去、荒廃を通して浮かび上がって来た古層の埋もれていた衝動が、みかけの必要や状況と乖離して活発になるのである。良心の覚醒であり、それは、不当に眠り込まされていたとでも言わんばかりに躍る。徘徊は、実は徘徊しているのではなく、どこかを探していて、それが何処かは具体として分からないがそこに至ればああ此処だと分かる、発見なのにずうっと知っていた、というような漠とした予期、あるいは危険にも二足で歩き出すことそのものであり、押し入れにお肉やバターをやたらに詰め込んで腐らせてしまっても頓着しないといったことは、頓着しないのではなく、蓄積、貯蔵こそがそこでは良心の覚醒であり、本能じみて、刺激も効果もなく、空で発動するのである。
 戦時下の諸々の強制が急激に除去された廃墟に、日本人に蘇った良心というようなものが、あっただろうか。少なくとも、都市では、民族も家父長制も失効させる食糧獲得のための分裂、分散の衝動だけは必要と状況に応じて、蘇って来ていた。戦後の個人主義はキッチュなのではなく、キッチュであることこそがみせかけなのである。

Wednesday, February 08, 2012

碧痕153 はろばろ転移する善

153 はろばろ転移する善
 何故、個別化すると同時に一般化する媒体は(媒体であることが秘密になって媒体であることの禁止として気配づくmoral の、その埋め合わせのように出現する媒体は)善として蒐索されるのか。
 部分が全体を代表するような抽象、例えば思い出は善だろうか。映像はどうか。写本は、学問は。
これら遺物も本当の持主の接近に感応して宝になるが、その光の実体は、時間を節約すると同時に犠牲にする二重性である。この二重性は、海の幸山の幸からは遠く屈折、転移した幸福ではあるが、倒錯して優越することもある。
 今まで見たこともなかったシリーズの一つを、現物を、現物を抱き竦めるアウラを思いがけず目の前にしたコレクターが、不覚にも涎を垂らしてしまうことは、決して比喩でも誇張でもない。
 言葉の蒐索も、どんな形態をとるのであれ、器官の延長としての貨幣が垂涎ものになるようにパブロフ的に屈折して遥か転移した善の蒐索である。たあいもないおしゃべりもうわさも器官の延長としての言葉の蒐索であり、咀嚼に先立って涎を出す、反射や命令すると同時に服従する本能の分割(器官の延長としての分業)のように、必須アミノ酸の獲得からはろばろ転移、変形している。言葉の蒐索形態は、どのように唾液が分泌したかの瘢痕である。

Sunday, February 05, 2012

碧痕152 媒質としての時間

152 媒質としての時間
 「宇宙風化」する太陽系の「化石」イトカワから帰還したカプセルのなかに地球外の粒子が採取されていたということで、ひとしきり人々は興奮している。これは、何億㌔かをズーム・アップし、更には何十億年かを遡上して覗き見る興奮であり、分業を含めて器官を延長する興奮である。
 しかし、「何億年か後の絶滅した人類の化石」は、ズーム・アップし続けた物語から一気に高々と(様々な違いを均して)遠ざかるカデンツァの一種である。
 器官の延長として鳥は羽毛を、ヒトは時間を身につけた。この世のものは、時間を犠牲にして中間を突破し、すなわち、その擬態の気配を消す。死後の茫漠とした時間を粘り強く夢想し、夢想するのは、擬態の気配を消す突破(時間に棲むこと)と、擬態の気配を消せない落下(時間が解けて宙に浮くこと)の間に揺れるのである。
 この、媒質としての時間は、この世の遠方に新しい天体の光を検知して、時間の逆戻りを節約する分だけ時間を犠牲にする。それは、証明できない全体を部分が代表するような抽象をこの世のものとして賦活する媒質である。一方、この落下は、浮揚と区別できなくむしろ重力の失効であるが、重力を忘れることではなく、一貫性を約束する気配(従って、中間を突破する飛躍の気配)が消せないために、重力がかからないのである。

Thursday, February 02, 2012

碧痕151 Alien、龍、監視カメラ

151 Alien、龍、監視カメラ
 Michael Haneke 71 fragmente(71 fragments of a chronology of chance)
 ブルガリアから国境を越え、夜の闇を押しのけるウィーンの光暈を遠く目にして、模写発作に惚恍が顔面に顕れる少年の、その後の足取りに最も多く監視カメラの焦点は合わされるが、同じウィーンながら(山岳を隔てるように)ばらばらに片隅で煩悩を日々営む人々が、更にばらばらに世界各地で起こっている出来事に(TVを通して)壁紙のように遠巻かれながら、1993年12月の或る日或る時刻に或る銀行で居合わせることになり、発作的な無差別殺傷事件に巻き込まれる。監視カメラの選択は無差別にして選り抜きである。潰滅的な作用を及ぼすパニックが起こらずとも、白い息を吐くウィーンは被曝して宙に浮いているが、東京では(TVを通して)壁紙のように遠巻く世界の出来事の断片的光景でしかない。
 2011,03.11 東日本
 岸からみるみる潮が引き、数10㍍先の海底が見えるほど海岸線が後退すると、沖に白い波が見えてきた・・・車や家屋をのみこみ、がれきの山にしか見えない高さ約20㍍の津波だった・・・
 真っ黒な津波は「でっかい芋虫みたいな動きで、モコモコと迫ってきた」・・・内海の広田湾からも波が押し寄せた・・・「新幹線よりも速く」普通の海の色に近かった・・・
 通りかかったお年寄りの女性をおんぶし、左手にはもう一人の女性を抱きかかえ・・・高台にある熊野神社を目指した・・・遠くから地鳴りとともに、バキバキと木が折れる音、「プシュー」というガスが漏れるような不気味な音が聞こえ、焦げ茶色の波がみるみる町を覆っていった・・・
 民家の屋根に乗って家ごと流されている人もいたが、覆いかぶさる波にのまれて見えなくなった・・
 ブルドーザーの走行ベルトだけが走ってきたように感じた・・・
 自宅兼医院に入ると、近所の人や面識のない人までが血相を変えて上の階へと駆け上がっていた・・
 「洗濯機の水流があらゆるところからくるように、これでもか、これでもかともまれた」体は前後左右に不規則に回転し・・・
 水中でがれきや柱がぶつかる音が聞こえる。見えるのは車やガスボンベ、タイヤなどばかり・・・
 民家の屋根に乗り上げていた。チャプンチャプンという水の音もした「なぜか必死でブレーキを踏み続けていた」
 母は津波で流されてきたがれきの下敷きになっていた・・・そんな時、口から泡を吹き出しながら流されてきた五歳ぐらいの男の子を助けた。割れたガラス窓から寒風が吹き込み、自分の吐く息は白かった。男の子からも白い息が漏れていた・・・小便が真っ黒になっているのに気づいた。どぶのような臭いがした・・・