Tuesday, January 08, 2013

碧痕264 埃及の尽きる処、一本道の尽きる処

264 埃及の尽きる処、一本道の尽きる処  エジプトの尽きる処、ポートセットの港は、島影や山影の前触れもなく忽如不意をついて現れ、熱帯の強い日の光で物という物の輪郭が嘘みたいに「鮮明」で、港の景色の全容が「明鏡」に次元を縮められて映っている。伊太利亜人希臘人埃及人が騒がしく呼び立て、如何わしい宝石、織物、絵葉書雑貨を並び立てたけばけばしいペンキ塗りの粗雑な店々が、限られた時節の、つかの間の賑わいのあとで一朝にして取り払われ、杭や柱の穴に水が溜まり、一面雑草が蔓延る空地になる。その村落の一本道の尽きる処、砂漠の入口には半ば砂に埋もれるようにして駅があり、そこから出発した列車という列車は再び還って来ることはない。(「ポートセット」ふらんす物語)  この、鏡視症や、認識とは何か違う「鮮明」や、何をしようかというようなもの憂い気配は、何かの反響のような太鼓や鈴の音の、その嘘気を吹きつけられて「玉ノ井」に地続いている。何か禁止が潜んでいて、荷風は抜け出せないが、その限りで生き延びられもする。  浮浪に潜む呵責は落下であるが、浮浪が反抗を代表する限りで、呵責が代表するのは、清教徒的、儒教的勤勉、引いては近代的産業の生産性ということになる。ところが、この近代的なもののただ中で、野生の灯が誘う。この、野生の人工は、狸囃子のように嘘気を吹きつけ(られ)ている。一本道の尽きる処、「浮雲」の断面である(未知の)擬似奥行に吸い込まれてしまう。

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