碧痕270 「金魚の尾のたまゆら舞う」
270 「金魚の尾のたまゆら舞う」
探索が目指すのは幸福の場所である。探索は、土着的に蔓を伸ばし根を張ろうと漂泊がかって転移、歪曲されようと、食糧の獲得を目指す。その旅愁は、海の幸山の幸を授けられた場所や時代への郷愁に変質したりもするが、空腹でもなおも歌うとすれば、狼狽の効果から胃袋は肺の袋に遊走しているのであり、この器官の位置異常に於いて空腹は「愁」に翻訳され、旅愁は単なる空腹ではなく、歌うことや口笛を吹くことなのである。多足類の肢が結集して強靭な顎を形成し、更には華やかな角に発達していく薄気味悪い道筋とは別に、生殖器官が肺の袋に遊走して「悶」に翻訳される、その歌は、華やかに冠を逆立て或い羽を拡げている。このようにして、食慾と性慾、「愁」と「悶」は融合する。
芭蕉の俳諧の課題は、この融合が「放浪記」(林芙美子)のように赤裸々になることではなく、いかに隠れているかである。漂泊の日常性に臓器の位置異常をそれと知らず使いこなす安定器がはたらいていて、「谷底に沈んで行きそうな空虚」がしかも「胴体を荒縄でくくりあげて、空高く起重機で吊りさがりたいような疲れ」でもあるような「屠殺される前の状態」を、「口の中からかいこの糸のようなものを際限もなく吐き出」して「金魚の尾のたまゆら舞う」ように報告することではないのである。


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