碧騒296 異常質量
296 異常質量
Thomas Aquinasの「神学大全」は、認識である限りで、神を限定しようとして届かぬ、その届かなさを模写する果てしもない祈りである。まるでそれは、到達・保存の衝動がその擬態を以てしては限界づけられないことに面して、狼狽の効果から、同じ照明を当てる分析と決断と要請の同じ様式の敷衍が連祷の果てしもなさに転移したというようだ。
そうした転移の症状は、「澀江抽斎」以降の鴎外の、「藁しべ」から始まる果てしもない変換の連鎖にも顕れている。この、何処まで行けるか運試しする変換は、仮の解が別の仮の解に限定されるために最終状態が潜伏するのでもなく覚醒するのでもなくいつまでも後退するかに見える。
鴎外が「阿部一族」や「堺事件」などで「異常心理」と呼んで限界づけようとしているものは、神の場所化で限定される個体(subjectum )が身代わりであることの、その「力の接触」の横溢に面して、この個体が分割されて対象(objectum)と主体(subjectum )とに岐れる、その主体の模写発作としての戦慄が転移したものである。つまり、それは、鴎外の訓練履歴からして、鴎外の生体反応としての戦慄と狼狽を報告している。ここで、場所化して身代わりを立てるのは神というより、家(祖先)であるが、殉死も阿部一族の反抗も堺事件で割腹する下級武士も、その「私」を代表するのは自由、孤独、思考ではなく、狐憑き、類、生首であって、身代わりであることに面して戦慄しているのでも異常でもないのである。
家(祖先)は、場所化して個体を限定するだけでなく、その個体は家(祖先)を映し出す媒体である。その仮の解は別の仮の解に限定され、場所化して打ち消された更に別の仮の解に限定され、何であるか分からないままに最終状態はいや継ぎ継ぎに後退する。「澀江抽斎」以降の鴎外の方法は、この後退であるが、最終状態が覚醒しないのではない。澀江抽斎の痕跡を一つ一つ辿ってそれが忽然、八百屋お七が縫ったという袱紗に変換する場面、しかし、その「袱紗」は決して場所を占めない。それは、「力の接触」の横溢であり、鴎外は戦慄して「異常質量」とでも呼びかねない。


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