Sunday, May 05, 2013

碧騒303 襲う充実

303 襲う充実  終末の到来は、神の場所化の後退である。最終状態が出来事になるのであり、井戸から水を汲み上げても尽きることなく満ちて来る水のように場所(・意味)が満ちて来ていて、しかし井戸を水が占めるようにではなく、井戸が満ちるようにである。  ありふれた日常の様相が歴史的に(意味深い出来事に)なるのは、その出来事が占める場所(・意味)が出来事になって場所(・意味)が後退するからである。つまり、出来事の最終状態としての場所(・意味)が蜻蛉を切るようにしるしに転じて顕在化し(場所を占め)すなわち、そのしるしの意味が潜伏する(場所化する)のである。意味深くなるのは、様相が代表する全体と場所(・意味)との区別が冒されている症候である。  神経症の意味深さでは、その症状が代表する命令(精神)と場所(・意味)との区別が冒されている。蜻蛉を切るようにしるしに転じた命令(・場所(・意味))が異様に場所を占拠し、意味が隠れるのである。  進化論的眩暈、それは、個体発生的なものが系統発生的なものを代表して意味深くなるのであるが、後退する場所(・意味)を占めることで、連続性と区別のつかない飛躍としての生命はしるしに転ずる。疚しさとなって潜伏した命令(予期)の兆候である。その意味は、中間突破は思いがけない飛躍であることである。眩暈の如き遥かさというものは、いつ、どのように経験するものだろうか。それは、学ぶのではないし、学ぶために旅に出るというのでもなく、思い詰めたのでもなく、忽如、まるで予期していたかのように、というより予期していたためにこそ思いがけなく、襲うのである。

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