碧騒313 もの凄い空虚
313 もの凄い空虚
デング熱にかかったときなど、自分がもの凄い力に押されて小さくなっていく、体の大きさは見えていながらしかも形がもの凄い速さで小さく縮んでいく、「自分の体が見えないのに、話している自分の声がきこえたり、相手の体が見えないのにすごく遠いところから、相手の声がきこえて来たりする。」(「ヴァニッシング・ポイント」鶴見俊輔)
これは、場所を占める出来事とは違うし、個体が占める場所でもなく、個体が擬態として鎧う直しさや「私」が解けて、場所が宙に浮いているのであるが、個体であることや日常性が解けて何処でもない場所が剥き出しになることは、LSD でも起こり、「便所に入ったら、自分の体が見えなくなり、ただ小便だけが、あさがおの中に、走って行って消えた。」というように「ふだんは見えない所で自分の日常を支えている非日常的なものが、形を借りて、それだけでぬっと出て来」るのである。場所が解け、真偽の区別はおかされ、同一であるかどうか疑わしく、「ただ小便だけが、あさがおの中に、走って行って消えた」と報告(形成)しながらも、その液体の運動が中間を突破したのか疑わしく、その液体やあさがおは具体の極にあって個体であることとは何か違う。「ぬっと出て来た」のは、媒体であることの気配(化の気配)が秘密ではなくなったのである。「自分が、手のひらの中で、小さい自分になり、それを、ゆつくり見ているのを感じる。」「外を見ていると、木の枝にかまきりがとまってこっちを見ていた。自分がかまきりの立場から自分のいる位置を見ていることを感じる。」「私」が解けながらも「私」の極にあって覗き穴が盗まれ、能所の区別、発信と受信の区別がおかされている。「急に、今、この部屋の外を歩いているのは自分だと思って、胸さわぎが」する。しかし、「私があふれだしている」と感じるのは、日常性に於いて、場所(意味)となって潜伏していた命令があふれ出して、場所と時間の区別のおかされた最終状態が、その「地肌」を見せて露頭しているのである。それは、「もの凄い力で」と報告されても量的接触ではなく、量的接触の解脱であり、潜伏している「力の接触」が不随意に「ぬっと出て来」る、すなわち、ゴースト(命令)がかかるのである。
「ただ小便だけが、あさがおの中に、走って行って消えた。」この、もの凄い空虚は、場所ではなく覚醒であるが、熱やLSD に魘されなくてもおどろく。


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