碧騒318 眠気のような広がり(覚醒のような深さ)
318 眠気のような広がり(覚醒のような深さ)
時間は惰性が体する擬似奥行である。タイム・スリップが奥行に分け入ったり、深みへ転落することを入口(覗き穴)とするのは、時間が漠としてその方角であるからである。タイム・スリップは、場所に優越しようとして場所を移るように、深さに優越しようとして移り、極端に器官を延長し、極端にズーム・アップして惰性の壁を突破する窃視である。この落下は、死と区別がつかないが、死体のように公的、ではない。
度忘れの状態で河を渡ることは、度忘れ状態で疼く記憶のunlearn であるが、この記憶は予期と区別がつかない。水や階段や太陽、やや長じて遠方や夜の発見は、漠とした興味に矛盾しない範囲でのずれがあり、その即興性に於いて具体として現れた、その水、その階段、その太陽は、形式(予期)として潜伏する「水」「階段」「太陽」の間に合わせの解に過ぎない。そのために、魘されるような発見なのである。更にはこの、魂のように潜伏して疼く「水」「階段」「太陽」も、何か更に高次の形式に服従して、その水、その階段、その太陽とは別の水準の具体(もしかして奥行の複数の解)となって顕在化している。つまり、何か更に高次の命令が疼くように潜伏している。
落下は、この、度忘れ状態で疼く何か更に高次の命令(意味)がかかる、眠気のような広がりである。不随意に襲うように黄泉返る記憶が漠としたしかし強い現在の興味を命令(意味)とするように、不随意に魘されるようにタイム・スリップするこの世の断面にかかる命令(意味)も漠としたしかし強い現在の関心であり、崩れる現在の惰性は、覚醒のような深さである。
落下は、個体発生的な奥行が極まる覗き穴を通した極端に系統発生的な奥行の黙示である。資本主義を駆り立てる力は器官の延長の衝動であるが、究極の器官の延長であるタイム・スリップは器官の延長を取り消してしまう。物語がタイム・スリップを取り扱うのは、資本主義の段階が示す不正義の症状の転写であるのに、それと気づかないのである。


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