Tuesday, June 25, 2013

碧騒320 影がおどむ置き換え難さ

320 影がおどむ置き換え難さ  タイムマシンは遍在を目指す窃視の、その覗き穴の機械化であるが、その器官の延長が取り消されるのは、現在が連続していないことの黙示である。一方、タイム・トラベラーは黙っていられない。極端に私的な時間旅行で或る現在に胴体着陸したかに見えても、「私」というものの連続性は疑わしく、輪郭を取り戻そうとしてしゃべらないではいられないのである。個体が鎧う擬態は何処デモナイ場所が潜伏した現在の惰性へ軟着陸するというふうであるが、タイム・トラベルは現在の惰性(擬似奥行)に留まったままに現在の惰性を脱するというふうな擬似転移である。それは、神経症の、その症状の転生に酷似していて、抜け出すのではない。  タイムマシンは、物語るように駆り立てる。それは、「絵のない絵本」などに出現した日月の目であり、度忘れの状態で河を渡るようなものであり、現在を予言する。その腹話は精神分析的であり、極端に個体発生的で不寛容にしてしかも極端に系統発生的で寛容である。こうした矛盾、彷徨性が、タイム・トラベラーの体表に出る症状(影がおどむ置き換え難さ)である。  「タイムマシン」(H.G.Wells )では、タイムマシンが盗まれる。これは、「審判」(F.Kafka )で再話されているが、覗き穴が盗まれることが一体どういうことであるかを報告しようとして藻掻く。それは孤島に取り残されるような孤独ではなく、逆に、孤独、自由が剥奪され、思考が筒抜けになり、何もかもが息を殺してとり巻く気配と心臓の鼓動とが対位、感応して、連続しているはずの現在がしかし飛躍して唐突に隣り合わせている。この、個体が擬態を解いて媒体であることが剥き出しになる黙示は、矛盾した方向で報告される。一つは、輪郭を崩さずに何も変わっていないのにギョッとし、もう一つは、何も変わっていないのにとりかえられてしまっていて唖然とする。夜の闇を通り抜けても、人の手から手へ渡っても「私」や壷が何もおかされていない、その中間突破に驚くのは裂目に面した模写発作で、実は「私」や壷にゴーストがかかっていて、その二重性を「私」や壷が含蓄して置き換え難く影がおどむのである。この影は場所と区別がつかないが、時間を通り抜けても白骨化するどころか何もおかされていない、或いは、何も変わっていないのにとりかえられてしまっている、その、影がおどむ置き換え難さは、しかし孤独と混同されがちである。

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