碧騒315 応答
315 応答
ジキル氏とハイド氏が交替するのは、生き延びるための転向に踏み切れないのである。選択に面して息を詰める意志の顕在、不正義の症状が、記憶喪失である。それは、息を詰めていないかのように見せかける。躁鬱の交替では、躁鬱は選択肢なのではなく、不正義の症状そのものである。意志が顕在して息を詰めている限り、踏み留まるにしても蜻蛉を切るにしても(意志が潜伏する)服従の運動にならない。
生き延びられなければ、反対のものに蜻蛉を切って転ずるのは、擬態の衝動である。生き延びるために不随意に擬態(寿命や「私」)が解け、生き延びるために不随意に擬態(寿命や「私」)を鎧いもするが、これは、生き延びるために蜻蛉を切って転向する擬態の根底である。踏み絵を踏んで転ぶことも踏まぬことも、この世のものであり、正義の場所化(潜伏)であり、不正義の症状ではない。正義は疚しさとなって潜伏する限りでこの世のものを支配する。この世のものの服従の運動は、その応答である。ハイド氏がジキル氏を乗っ取ったとしても、それは、この応答である。


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