Wednesday, July 10, 2013

碧騒325 不正義の症状の証言

325 不正義の症状の証言  デカルトの視座は、個体(subjectum )を対象(objectum)と主体(subjectum )に分割し、現在の惰性を抜け出そうとして現在の惰性(中間)に抜け出てしまう。この、虚構であるが押し寄せ犇めく中間に面しては、二つの反応、態度がある。一つは、中間突破の頓挫、もう一つは、「私」というものの一貫性、連続性は中間を突破している、そのことの含蓄である。ゼノンの論理異常は、世界の涯に出てしまっているためにいくら前進し、突進して足掻いてもまるで進みようがないように、涌き出して来る中間に不断に直しさ、「私」が忍び込んでいて中間突破しているのに、中間突破できないでいる意志の顕在、不正義の症状である。  幽霊を目撃したのは私であるのに、幽霊は私を探しているようではない、といった不思議な悲しみ(「ねじの回転」Henry James )は、こうした意志の顕在、不正義の症状の証言である。  そもそも幽霊は個体なのか。個体性が解けたモノの黙示、影がおどむのではないのか。もの「の」発見の、その「の」の目的格が主格、同格、所有格と収斂した、モノ「の」覚醒なのである。間接にする技術としての中間を「私」が占めていないことが、つまり、幽霊の出現が法則的でも歴史的でもなく、「私」がおかされていること(呼び出されていないこと)が、幽霊ハ私ヲ探シテイルヨウデハナイ と報告されているのである。

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