碧騒331 到達の諸相、到達の頓挫
331 到達の諸相、到達の頓挫
法則的模写(ヘロドトス的、本質に迫ろうとしない)、歴史的模写(ツキジディス的、本質に迫ろうとする)、つまり、ヘロドトスの歴史は伝えられ方が社会的であること、平均化されていることに、ツキジディスの歴史は私的であることに重心を移しているが、私的であることが極端に走ると(疫癘を生き延びた最後の一人の如くになると)極端に一般化することと区別がつかなくなり、遍在する窃視が息づいて来る。ホメロス的なものは、覗かれる個体にこうした息がかかって媒体であることの気配が消えないのであり、媒体であることの気配が消える限りでツキジディス的な歴史は、虚構の気配を消した物語との区別がつかない。
日月、冨嶽、TVは、大気を寂漠にする限りで、遍在する窃視(の覗き穴、盗まれた覗き穴)の隠喩であるが、それは、神の恵を大量伝達する装置であるかに見えて、エコーするばかりである。アブラハムや何処にある、と呼び出しをくらって、アブラハムはここに、と応答しているのに、あぶらはむヤ何処ニアル、とばかり(まるで、いきなり横っ面を殴られたような衝撃で)口から飛び出してしまう。こうしたエコーの、その媒質としての寂漠は世界が終わっている断崖に出てしまっているために、どんなに大声で叫んでも断崖(の沈黙)に吸い込まれてしまうのである。そこでは、世界は真偽などどうでもいい生成と広告であり、資本主義的生産と広告はこれを模写しようとするのであるが、発信と受信が分業するように、エコーするのではなく反復するのである。しかしこの反復は忽然と解けて(何も変わっていないのにとりかえられてしまって)裂目がみひらく(エコーする)。ウォーホル的反復は、この裂目を黙示しようと肉薄する。しかし、反復はエコーの擬態であって、エコーするのではない。単に36の覗き穴の分業から浮かび上がる冨嶽は中間に迫るに過ぎないが、覗き穴が盗まれる限りで世界の終わりの断崖に出てしまって、エコーするのである。


0 Comments:
Post a Comment
<< Home