Tuesday, August 06, 2013

碧騒334 不随意の運動、不随意の懐疑

334 不随意の運動、不随意の懐疑  「我思う故に我あり」と心臓は最も懸け離れたものであり、この反対のものによって互いに模写される。心臓が最も遠く延長した先にあたかも心臓ができて鼓動を打ち始めるかのような最終状態が心であり、また、「我思う故に我あり」が最も遠くまで演繹した先であたかも目をみひらくような最終状態が心臓である。つまり、心が心臓の場所であるか、心臓が心の場所であるか、どちらかなのであるが、この離接に応じて、随意と不随意との間に踏み留まる。しかし、その、踏み留まる現在の惰性が不随意の懐疑におかされるような「呼ぶ声」にいつでも呼び出しをくらいかねない。思索は問題を解決するために、心臓から延長した手や触角などの器官を更に延長して模索するのであり、多足類の足のように強靭な顎を形成し得るし、咀嚼や反芻は思索的であるが、思索の場所は心臓であり、しかし思索が占める心臓が思索を占拠してしまう、その不随意の運動が食い破って出る不気味、その、わしづかみにする心臓が、不随意の懐疑である。それは、心臓がわしづかみにされるのである。つまり、受身、自発、尊敬、可能の、その分岐が取り消される。デカルトの場合、この、わしづかみにする心臓は神として迫るが、寄生したAlien の目のない幼虫が人体を食い破って出る、その、のたうちも、この不随意の懐疑が迫るのである。

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