碧騒335 神学の屈折
335 神学の屈折
心臓は最終状態としての心(場所)に映るのではなく、心臓(具体)となって出現すると同時に潜伏する命令(形式)を(すなわち心臓の場所(最終状態)となって潜伏する命令を)心臓こそが媒体として映すのである。この、媒体であることの気配を消す限りで、心臓は不随意であることの気配を消して場所を占め、心を鎧う。
呼ぶ声がして、媒体であることの気配が消せない(心臓がわしづかみされる)不気味は、場所(心)の氾濫であり、心臓が何処デモナイ場所(宙)に浮くのであり、出現すると同時に潜伏する(不随意の化の)隠喩性や(思いがけない具体の)媒体性に被曝して、わしづかみされる心臓は、模写発作であると同時に、気配を消して不随意にはたらくものが気配を消せない被曝の隠喩的症状でもある。
「方法叙説」の、その、心臓の不随意の運動のズーム・アップは、その精妙に被曝して、不随意の懐疑と覚醒(おどろき)の区別がおかされ、このズーム・アップは不気味と区別がつかない。蜒々と続く神学的敷衍と演繹の大いなる転回に見える、このズーム・アップは、神学が屈折して、器官の延長と座標変換が蜒々と続くのである。


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